シエナで人がばたばたと死にはじめたのは5月のことだった。残酷でおぞましかった。 この悲惨さと過酷さを、 どこから語っていいのかわからない。ほとんどすべての人が、苦難を目の当たりにして茫然自失の状態だった。この恐ろしい 事実を人間の口で物語るのは不可能だ。 じつのところ、悲惨な状況を見ずにすんだ者は幸いだとしか言いようがない。 犠牲者はまたたく間 に命を落とした。わきの下と鼠径部が腫れ、 話しているさなかに倒れてしまった。 父は子を見捨て、妻は夫を見捨て、兄弟はお互いを見捨てた。この病は呼吸や視線を介して伝染するように思えたからだ。こうして、 彼らは死んだ。 死者を埋葬してくれる者は見つからなかった。死者が出た家の者は、 遺体を溝まで運ぶだけで精一杯だった。 司祭もいないし日々捧げられる祈りもない。 弔いの鐘が鳴ることもない。 シエナの各地で深い穴 が掘られ、 多数の死者がそのなかに積み重ねられた。 昼夜を問わず数百人もの人びとが死んでいった。遺体はすべてこれらの穴に放り込まれ、土をかぶせられた。 穴が満杯になると別の穴が掘られた。 そしてこの私、アグノロ・ディ・トゥラ と いえば…… わが子5人をこの手で埋葬した…… あまりに多くの人が死んだので、 誰もが世界の終わりだと思った。


1320年台のある時、ゴビ砂漠でペストが発生し、旧世界の大半に広がった。ネズミがペストに感染したノミを東は中国へ、南はインドへ、西は中東、地中海沿岸、欧州へと運んで行った。中央アジアの隊商路が拡散ルートとなっ た。
1345 年、ペストはクリミア半島に到達するとそこでイタリア商船に乗り移り、地中海沿岸に運ばれていった。
1348年、死を運ぶ貨物船が、アレクサンドリア、 カイロ、 チュニス といったアラブ圏の大都市を襲った。翌年にはイスラム圏全体がペストの感染爆発に呑み込まれ、特に都心部で膨大な死者数が報告された。
1347年秋にシチリア島にペストが持ち込まれた。それからほんの数カ月でペストはヨーロッパ南部のほぼ全域に広がった。
ピサ、 ジェノヴァ、 シエナ、 フィレンツェ、 ヴェネツィアの住民が、 もっと小さな多くの 町の住民とともに命を奪わ れた。伝染病は1348 年 1月 に マルセイユに到達し、 フランス南部とスペインをあっという間に壊滅させた。 ペストが北へ広がっても依然として阻止する ことはできなかった。 1348 年春にはパリに、その後フランドル地方と北海沿岸低地帯〔 現在のベルギー、ルクセンブルク、オランダ〕に達した。 49 年にはスカンディナヴィア地方 を襲い、さらに辺境の地であるアイスランドとグリーンランドへと進んだ。134 8年 秋 には、南部の港町からイングランドに入り、 翌年アイルランドに上陸した。
ウォルター・シャイデル. 暴力と不平等の人類史―戦争・革命・崩壊・疫病 (Kindle の位置No.7856-7862). 東洋経済新報社. Kindle 版より引用
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