![]() 黒海沿岸の港町、”オデッサ”がルーマニア軍の総攻撃を受けたのは、独ソ戦開始後四ヶ月ほどたった頃のことである。 この三ヶ月の間に、前線付近に身を潜めるユダヤ人は自らの危機を悟り一斉に大移動を開始した。難民となってソ連領奥深くに逃げ込み始めたが、時すでに遅く、すぐ独軍とルーマニア軍に追いつかれ戦火に巻き込まれた。 ヴコヴィナ、ベッサラヴィアの残ったユダヤ人は「今こそユダヤ人を一掃する好機が到来した」と声高に叫ぶイオン・アントネスク元帥の命令によって狩集められ、ルーマニアが本大戦によって新しく得た領土、南ウクライナのトランスニストリアに作られた強制収容所群にぶち込まれた。彼らは食料も与えられず、飢餓や脱水、衰弱、銃殺、虐待によって死んで行った。 1941年10月16日に開始されたオデッサ攻防戦のソ連・ルーマニア両軍の損害は凄まじく、ルーマニア軍は最終的にオデッサの占領に成功したものの、7万名もの死傷者を出した。 占領されたオデッサの街でルーマニア軍による残虐な復讐が開始された。軍司令部が爆弾攻撃を受けたとしてこれを口実にユダヤ人の狩集めが命令された。 10月23日には5000人の市民が撃ち殺された。それとは別に19000人の市民が港の9つの火薬庫に鮨詰めに押し込められ、銃撃を受けたあと、火を放たれ焼き殺された。 その後2万人の市民が街から近隣の村に連行され、4、50人ずつのグループに分けられて対戦車壕の中に投げ込まれ機関銃で射殺されていった。しかしルーマニア軍はあまりに時間がかかると懸念し、残りを四つの火薬庫に鮨詰めに詰め込み、またまた火をはなって焼き殺した。そのうち三つは主に子供や女性で満たされていた。 この虐殺で約10万人のユダヤ人がたった二日で大虐殺された。これを超える規模の殺戮はドイツ軍やアインザッツグルッペにさえ記録されていない。 生き残りの約4万人のユダヤ人は、ルーマニア軍管理のゲットーへと移送され、多くが疫病や飢餓で亡くなった。 ウクライナ領のユダヤ人はルーマニア支配下の間に10万人がこのようにして殺されて行った。 アントネスクはこれほどの悪行をおかしながらスターリングラード会戦に敗れたことで、枢軸の勝利を疑うようになる。すると一転してユダヤ人をかき集めて金で連合国側に売り渡すようになり、こうして75000人がパレスチナに送られた。アントネスクはトランスニストリアの死の強制収容所からユダヤ人の孤児をかき集めて少しでも頭数を増やそうとさえした。 だが終わりはやってきた。 しかし、戦後共産主義体制になっても、国内のユダヤ人をイスラエルに売り飛ばすということが続いた。これは独裁者チャウシェスクが失脚する1989年まで続いていた。チャウシェスクはこの巨額の身代金によって10億ドルを超える資産をきずいたという。
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