ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン
Wolfram Freiherr von Richthofen
所属:ドイツ空軍(ゲルニカ爆撃当時コンドル軍団作戦参謀)
出身:シレジア地方シュトリーガウ
階級:空軍元帥(ゲルニカ爆撃当時中佐)
罪状:ゲルニカのテラー爆撃を指揮
スペイン内戦時のコンドル軍団によるゲルニカ爆撃は、ドイツ空軍最初期の都市空爆の実験であったと言われることが多いが、これに対し、あれは実際は戦術爆撃だったんだよ、と反論する人も多い。
1937年4月26日、リヒトホーフェン空軍中佐が作戦参謀をつとめた《コンドル軍団》とイタリア軍は24機の爆撃機でスペインの田舎村ゲルニカを爆撃。3時間にわたって約200トンの爆弾を投下。執拗に機銃掃射が加えられ、家畜や市民を殺戮し、市街の60〜70%が焼き払われた。
リヒトホーフェンは日記に
「250(部隊)は多くの家と水道を破壊した。焼夷弾がその威力を示す時が来た。瓦葺で木組みという建築構造は、完全な破壊をもたらした。・・・街路には爆弾の穴がまだ見える。素晴らしい」などとキルゴア中佐のようなことを書いている。この時点でリヒトホーフェンなる人物のテロ的気質がうかがえるが、この人物はのちにワルシャワやスターリングラードでもテロ空爆を企図し、ドイツ空軍の元帥にまで昇進している。
死者数は幅が大きく約200〜1500名と推測される(ゲルニカの人口約7000名)。
ゲルニカ爆撃の第一報は「タイムズ」誌の特派員の現地発記事によってもたらされた。
“バスク地方最古の町であり、その文化的伝統の中心であるゲルニカは、昨日午後、反乱軍空襲部隊によって完全に破壊された。戦線のはるか後方にあるこの無防備都市の爆撃は、きっかり3時間15分かかったが、その間、3種類のドイツ機、ユンカース型およびハインケル型爆撃機、ハインケル型戦闘機※からなる強力な編隊は、450キロからの爆弾と、計算によれば3000個の1キロアルミニウム爆弾とを町に投下し続けた。他方、戦闘機は屋外に避難した住民たちを機銃掃射するために、町の中心部上空に低空から侵入した。”
これらの機体を主力に組んだ時点で、軍事施設のみを狙った戦術爆撃を行うつもりだったにせよ、民間人に対する配慮にはまったく欠けていたと言われても仕方がないところである。
ゲルニカ爆撃は新兵器の実験台としての側面も大きく、世界中から空爆に対する避難が殺到した。
これに対しドイツは、空爆による民間人の殺傷はプロパガンダであるとして情報戦を展開した。
しかしこの惨劇は戦術爆撃を兼ねたテラー(恐怖)爆撃である。
これはやはり上にも述べたリヒトホーフェン中佐の人物像に現れている。彼の日記によれば、ゲルニカ爆撃の命令は次の通りである。
“ただちに出撃せよ。A88およびJ88(爆撃隊)はマルキーナ、ゲルニカ、ゲルカイス地域内の道路攻撃。K88、VB88およびイタリア隊は、ゲルニカのすぐ東の道路と橋(城外市を含む)。当該地域は封鎖されなければならず、最終的には敵の人員および資材に対する戦果が生じるようにしなければならない。”
「最終的には敵の人員および資材に対する戦果が生じるようにしなければならない。」
これは無差別爆撃の別の表現にほかならない。
また、爆撃隊の作戦将校補佐官は、リヒトホーフェンが「道路や橋の上を動くものは全て敵とみなし攻撃しなければならない」と語ったのを聞いた。
ゲルニカ爆撃は現在では間違いなくドイツ空軍戦力によるテラー爆撃の先例として歴史に刻まれている。
世界戦争犯罪辞典
戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島
ドイツ軍名将列伝
http://en.wikipedia.org/wiki/Bombing_of_Guernica