第101警察予備大隊の犯罪
その②
~ウォマジーの虐殺~
Das reserve-polizei bataillon 101
ルブリン管区北東部に位置するウォマジー村は、付近の村々からユダヤ人がかき集められていた。ウォマジーは鉄道駅から遠く、移送するのも一苦労であった。そのため銃殺されることになったのである。これらかき集め作業は第2中隊の仕事であった。第101警察予備大隊の第2中隊長ハルトヴィッヒ・グナーデ少尉も普通のドイツ人に過ぎない。彼は1894年生まれ、運送業者で1937年からナチ党員ではあったが、それ以前の人生の方がはるかに長かったと言える。ウォマジーはユゼフフとは異なり、対独外国人協力者が動員された作戦であった。トラヴニキから彼らが動員された理由は銃殺を担当するためである。彼らが”汚れ”を引き受けることで、ドイツ人の精神的負担を減らすこと。これが最大の目的である。
彼らは親衛隊の保安諜報部(SD)に率いられてウォマジーにやってきた。1942年8月17日早朝、ウォマジーのユダヤ人地区は解体され、ユダヤ人たちは校庭に集められることになった。集合地点まで移動できない病人・老人・幼児・虚弱者はその場で射殺されねばならなかった。1700人のユダヤ人は2時間ほどで集合し、60~70人の若い一団のユダヤ人が選別され、シャベルを持たされトラックに乗せられ森に連れて行かれた。森の中でユダヤ人たちは巨大な墓穴を掘るために作業させられた。他のユダヤ人はその場で何時間も待たされた。 その間に親衛隊将校に率いられた外国人協力者が村に到着した。彼らの多くはウクライナ人であったらしい。彼らはすぐに飯を食い酒を飲み始めた。グナーデ少尉と保安部将校も同じく急ピッチで酒を飲み始めた。 墓穴を掘る作業が終わりに近づくと、校庭で待たされていたユダヤ人たちも1kmほどある森へ、死の行進が始まった。行進はノロノロしており、動かないもの、途中で倒れたものは容赦なく射殺された。 ユダヤ人の隊列が森に到着すると、彼らは性別に分けられ、三つの集合地のいずれかに送られた。そこで彼らは服を脱ぐように命じられた。衣服や貴重品はその場で奪われた。 第2中隊長グナーデ少尉はその日どうしようもないぐらい酔っていた。というか、彼はここ最近アルコール依存症にかかっていたようである。大隊の悲惨な任務は素面では耐えられないものだったからだ。彼は酔うことで彼の悪い部分を増幅させた。 射殺が始まる直前、グナーデはユダヤ人の中からあごひげの豊かな指導者風の年長のユダヤ人を選び出し、墓穴のふちにうつ伏せで寝かせて棒で打ち始めた。・・ 射殺の準備が完了すると、ユダヤ人たちは小グループに分けられ、墓穴に向かって走らされた。墓穴は三方を土塁で囲まれ、入口はユダヤ人を追い込むためスロープがつけられていた。対独協力者たちは酔って興奮していたので入り口付近で射殺し始めた。その結果最初に殺されたユダヤ人が積み重なってスロープをさえぎってしまった。そこで幾人かのユダヤ人が墓穴の中に入り、入口の死体を取り除いた。ただちに多数のユダヤ人が墓穴に追い込まれ、対独協力者たちは急造された土塁の上に立ちそこから犠牲者を撃ったのである。 射撃が続けられるにつれ、墓穴は死体でいっぱいになった。後から来るユダヤ人たちは射殺された死体を乗り越えねばならなかった。死体は墓穴を満たしほとんど穴の淵にまで達していた。 グナーデも対独協力者たちもますます酔っ払っていった。グナーデは土塁の上から拳銃で撃っていたが、酔って終始墓穴の中に落ちそうになっていたという。保安部将校は穴の中に入ってそこで射殺していた。彼もまた酔っており土塁の上に立っていることはできなかったからだ。銃殺班が泥酔状態になっていくと落伍者が増えてきた。するとグナーデと保安部将校は周囲のもの全員に聞こえるぐらいの大声でお互いを罵り始めた。 グナーデによって第2中隊の警官たちにも射殺命令がくだされた。 銃殺班は墓穴の対岸から処刑を続行することに決めた。ユダヤ人たちは墓穴のそれぞれの側面に沿って横になるように命じられ、処刑されていった。8~10人の銃殺班は5~6回射撃するとローテーションで次の部隊と交替した。2時間もすると泥酔状態の対独協力者たちが目覚め、ドイツ人警官と交代して射撃を再開した。銃殺は夜7時頃終了し、脇に待機させられていた作業用のユダヤ人が死体で溢れた墓穴に覆いをかけた。その後彼らも射殺された。 普通の人びと―ホロコーストと第101警察予備大隊 |