パウル・ブローベル
Paul Blobel
「バビ・ヤールの大虐殺」主犯
所属:アインザッツグルッペンC、ゾンダーコマンド4a
出身:ドイツ、ポツダム
階級:SS大佐(SS-Standartenführer =シュタンダルテンフューラー)
罪状:キエフ、バビ・ヤールの大虐殺を指揮・実行。2日間で33771人の女子供を問わないユダヤ人・ウクライナ人・共産党員・ジプシー・ロマ、精神障害者の虐殺に関与
皆さんは「慈しみの女神たち![]() 今回は「慈しみの女神たち」で最初アウエの上司として登場するパウル・ブローベルをとりあげる。この男はバビ・ヤール渓谷というキエフ市街中心地から北西約3キロにある、峡谷状の地形の土地で、2日間で33771人のユダヤ人・ウクライナ人・共産党員が虐殺された事件に責任を負っている。 1894年、8月13日にドイツ、ポツダムで出生。第一次世界大戦に従軍し、戦後は建築を学んで31年まで建築関係の仕事をしていた。しかしその後職を失いナチ党へ入党。親衛隊に入隊する。1934年からSDに所属し、対ソ連侵攻作戦「バルバロッサ」の発動と共にアインザッツグルッペ(=特別出動集団)Cの指揮下のゾンダーコマンド(SonderKommando=特務部隊)4a(以下sk4a)の指導者となる。 1941年9月、sk4aは南方軍集団についてキエフに入城。キエフでは赤軍が撤退時に大量の爆薬を設置していったため、各所で爆発が起こりドイツ軍は大混乱に陥った。しかしこのこのことが口実を与え、キエフにまだ6万人いると目されていたユダヤ人の皆殺し作戦のきっかけを与えることになる。当時のドイツ軍の感覚ではパルチザン=共産党員=ユダヤ人であり、これらをイコールで結ぶことにためらいを見せる者は殆どいなかったという。 東国および北ロシアHSSPF(上級SS兼警察指導者)、フリードリヒ・イエッケルンSS大将などが計画・立案したこのバビ・ヤールの大虐殺では、実行は主にsk4aに割り当てられた。彼の部隊に加え、現地のウクライナ警察、武装親衛隊、治安警察部隊などから処刑人を募った。 キエフに住む全ユダヤ人を対象にビラを貼りだし、一箇所に集合するよう命令を出した。その命令に従わないものは銃殺するとの脅しが書いてあった。この馬鹿馬鹿しいビラにキエフのユダヤ人3万人以上が集まり、物品を略奪され、衣服を脱がされ、バビ・ヤール渓谷まで歩かされた。そして処刑場まで着くと少人数のグループに分けられ地面に横たわるように命令された。その後銃殺班が哀れな犠牲者を処刑する。そして死体が何とか隠れる程度に土をかぶせ、また別のグループを呼び出して銃殺する。・・・・この手順が繰り返された。延々と。年輩の男女、若者と子供、赤ん坊を抱いた母親・・全く区別はなかった。 この虐殺の数少ない生存者の一人、リュドミラ・シャイラ・ポリシュチュクはその時のことをこうふりかえる。 殺す処刑人の心理的負担もとてつもないものだった。この処刑は1時間やってまた1時間休むといった具合に交代制であった。酒はいくらでも飲めたという。 パウル・ブローベル自身もしばしばストレスによる過度の飲酒により任務遂行が困難になっていた。彼はナチ指導部より呵責ない行動力、忠誠心、人種イデオロギーに対する無条件の服従、指導者としてのずば抜けた資質、精力的な人間と評価されていた。ブローベルの命令でsk4aは6万人を殺したという。彼は信念を持って虐殺を行っていたという証言もある。この残酷な殺戮はドイツ民族のために行っているのだと。そんな「熱烈なナチ」であっても虐殺の心理的負担は耐えがたいものであった。銃殺班の中には自殺者も数名出たという。 任務を解かれたわずか5ヵ月後、彼は1005分遣隊という特殊部隊を率い、虐殺の証拠隠滅作業に従事した。死体を掘り返しガソリンをかけて焼き、骨を特殊な臼で粉にした。SS隊員として安定を取り戻していたブローベルはこの任務もやりとげてしまう。 終戦後、ニュルンベルク裁判にかけられたブローベルは「人道に対する罪」により死刑判決を受ける。最期まで彼は後悔の念を示さず、被害者よりも加害者に同情を寄せていたという。 慈しみの女神たち |