カール・フォン・オーバーカンプ
Karl von Oberkamp
ユーゴパルチザンが恐れた”虐殺師団”
所属:SS第7義勇山岳師団「Prinz Eugen(プリンツ・オイゲン公)」
出身:ドイツ、ミュンヘン
階級:SS少将(SS Brigadeführer=ブリガーデフューラー)
罪状:モンテネグロ、セルビア、ボスニア・クロアチア国境付近における虐殺作戦を指揮
情報の少ない人物である。 ではなぜこの人物を取り上げる必要があるのだろうか?この人はユーゴのパルチザン掃討戦の際に起こった数々の虐殺事件の張本人とされる恐怖の師団、SS「プリンツ・オイゲン」の司令官を務めた人物なのだ。1893年、ミュンヘンにて出生。第一次大戦に従軍し、陸軍大尉にまで昇進。その後親衛隊に入隊。1943年にはSS少将にまで昇進し、第7SS義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」の司令官に就任する。 同師団は主にユーゴでパルチザン掃討の任務についた。隊員はベルガーSS中将の武装親衛隊外国人傭兵構想に乗っ取り、ルーマニアやハンガリーやユーゴのドイツ系民族の志願・徴収兵によってまかなわれた。師団は約2万人にまで膨張し、装備は二線級ながらその血も涙もない残虐性によってパルチザン側におおいに恐れられたという。 1943年初頭、チトー率いるパルチザンとの戦闘を開始。この戦いでパルチザン8000名を殺害し、2000人を捕縛した。だが師団の悪名を確かなものとしたのはこの直後、5月に始まった「黒作戦」と呼号されるパルチザン掃討作戦だ。オーバーカンプが師団長に就任した直後に始まったこの作戦で、師団はモンテネグロに侵入し、ニクシッチ地区を占領した。その際、パルチザンに対する見せしめとして非武装の村民を残虐の限りを尽くして殺戮。その後の調査で121人の村民が虐殺されたことが判明する。しかもほとんどが女子供老人だった。 更にプリンツ・オイゲン師団は7月からクロアチアとボスニアの国境付近で主にセルビア人やユダヤ人に対する虐殺作戦に従事する。ベリカでは村を包囲した後、略奪、放火に明け暮れ、300棟の建物を焼き払い、428人のセルビア人を虐殺した。 また、ブラガイでは520人の村民を男性、女性、子どもと区別なく皆殺しにした。頭を殴打するなど、残虐な殺し方であったという。 師団は迫り来る赤軍との戦いで消耗し、1945年5月にスロヴェニアでチトーのパルチザンに降伏。散々苦しめてきた同師団への報復に1600名のSS隊員が処刑され、女性通信員なども残酷に殺されたという。 オーバーカンプは数々の戦争犯罪を裁かれ、1947年にユーゴ政府によって処刑された。 1943年5月末、プリンツ・オイゲン師団がニクシッチ地域にやってきて、イタリア・ファシスト部隊と協同して平和な村落に襲いかかった。侵入と同時にこれらの部隊は何の理由もなしに、全ての銃火を開き、未曾有の犯罪の執行を開始した。見つけたもの全てに火が放たれ、殺され、略奪された。 武装SS全史Ⅱ |