アンパンマンの話

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そうだ うれしいんだ  いきるよろこび
たとえ むねのきずがいたんでも
なんのためにうまれて なにをしていきるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!
いまをいきることで あついこころもえる
だから きみはいくんだほほえんで
そうだ うれしいんだ いきるよろこび
たとえ むねのきずがいたんでも
あ あ アンパンマン やさしいきみは
いけ! みんなのゆめまもるため
なにがきみのしあわせ なにをしてよろこぶ
わからないままおわる そんなのはいやだ!
わすれないでゆめを こぼさないでなみだ
だから きみはとぶんだどこまでも
そうだ おそれないで みんなのために
あいとゆうきだけがともだちさ
あ あ アンパンマン やさしいきみは
いけ! みんなのゆめまもるため
ときははやくすぎる ひかるほしはきえる
だから きみはいくんだほほえんで
そうだ うれしいんだ いきるよろこび
たとえ どんなてきがあいてでも
あ あ アンパンマン やさしいきみは
いけ! みんなのゆめまもるため
出典:作詞:やなせたかし

アンパンマンのテーマが、作者やなせたかし氏の実の弟にささげられた歌であるとの都市伝説がある。

やなせ氏の弟は海軍特別攻撃隊のメンバーであった。この歌詞にこの身の上ではその手のうわさが飛ぶのはごく当然だろう。

何をどこからどう読んだって、これは特攻隊の無残な死に一定の敬意を払っているようにしか見えない。ワタクシもその手のうわさを聞いたとき、へ~面白い話もあったもんだ、と適当にググってみたのですが、すると真っ先に出てくるのが「アンパンマンのマーチ」は特攻隊の歌ではありませんなるタイトルのホームページ。なんや違うんかい。とちょっとつまんねーなーと思いつつこれを読むのですが、このホームページのテキストを隅から隅まで読んでも少しも納得できないんですよね。むしろ、やっぱりアンパンマンは特攻隊のメタファーなんじゃないか、とむしろ確信が強まってしまった。まー違うかどうかはこの際重要ではなくて、作品を通して視聴者が何を感じたのか、ってのが大切なわけです。表現者はアートの中で何かを表現するべきなのであって、作品の外で言葉で弁明するなんてのはナンセンスである(…と俺は思う)。

そんなわけではあるが、やなせ氏の言葉をシンプルに読んでいくだけでも、アンパンマンが特攻隊のメタファーというのはあながち的外れな話ではないとわかる。特攻隊というか、誰かの為に犠牲となって、有望なる未来と命を差し出した悲しき者たちへの賛歌…アンパンマンのマーチはそう解釈して全く問題ない。歌詞読めば明らかだし、上のホームページがアンパンマン=特攻隊論を否定するソースとして挙げているやなせ氏の言葉をちと引用させていただこう。

 ぼくはそんなつもりはなかったのですが、「アンパンマンのマーチ」が弟に捧げられたものだと指摘する人もいます。それだけ、弟と最後の言葉を交わした記憶が深く残っていたのでしょう。

この言葉は、否定しているわけではないと思うがいかがだろうか。そんなつもりはなかったけれど、深層意識での弟への想いが、歌詞に表れていたのかもしれません…そう言っているようにしか見えない。かの総力戦を生き残ってしまったやなせ氏にとって、弟はただの弟ではなく、国のため人々に未来を残すために命を散らせた、自己犠牲のヒーローとなっていったのではないでしょうか。そして、かの時代そのようなヒーローは無数にいたわけです。そしてそのような自己犠牲は普遍的な正義となっていくわけです。

中学生になってからは顎が伸びてきて、長い顔になりましたが、幼年時代はコンパスで描いたような丸顔でした。アンパンマンの顔を描くとき、どこか弟に似ているところがあって、胸がキュンと切なくなります。

この言葉からも、作者がアンパンマンに弟の面影を重ねているのは明らかです。

上のホームページでは、やなせ氏は反戦主義者で、自己犠牲とはいえ戦争で戦った特攻隊を賛美するわけがないという意見も書かれていました。これはいかにも物語を破壊するのが趣味の日教組的な偽左翼が言いそうな底の浅いセリフです。人が心をもっているという前提をたやすく無視しています。この国でこのような意見が多数派になることは決してない。

宮崎駿も確かそうだったと思うが、一見すると単純な反戦平和のバカ左翼なんですが、表現してるものを見てると、先生。戦争が好きなんじゃないですか?と尋ねたくなるようなものばかり。コミックの「ナウシカ」の3巻当たりを読んでいただければ明らか。駿流のブリッツクリークが遠慮なくぶちかまされています。二律背反が心の内で共存する不思議な人物なのです

でもあの時代の日本人には皆にそういう感覚がある。宮崎駿は表現者として秀逸なので、ちょっと目立っているだけ。戦争はひどいもので地獄のような惨禍をもたらしました。でも、青春をかけ、一生懸命やったのは確かですし、それによって命を失った人々が300万人もいるのですから、かの世代は日教組的な偽左翼が唱えるような上っ面だけの政治の道具としての反戦運動の感覚は無いのです。当事者として総力戦を骨の髄まで味わった当事者としての言葉なり意識なのです。戦争?あんなもんやるべきじゃないよ、アタシの父も三人の兄もみんなどこかの遠洋に沈められておっ死んだんだから。という意識。彼らは戦争はダメだと確かに思っているが、親兄弟の人生まで否定するつもりは全くありません。それどころか、現代人には到底わからない感性で、自分自身の命を捧げた家族や国民に敬意を払っていますし、どんなに馬鹿らしく思えたとしても、彼らの死の上に自分が生かされている気がして一生涯頭が上がらないのです。男だったら、そういう人々をかっこいいとか思ってしまいますし、尊敬の念さえ抱いてしまう。どんなに情の薄い女でも馬鹿にするまでは至らない。これを平然と馬鹿にしてしまうのは「日教組的な偽左翼」だけです。今に至ってもこれはそうであります。

(ワタクシも特攻隊は邪悪な軍事政権に死を強要された犠牲者だと考えています。英雄ではなく犠牲者だと思っています。しかし、彼らの人生や純粋な想いや、その死まで否定する気はさらさらなく、むしろ尊敬の念を感じています。そのような時代に強要され、好きで死地に赴いたわけではないにせよ、その時代に命を捧げた先人として一定の敬意を払っているとうことです。まともな道徳心を持つ日本人ならばそのような二律背反が同居している筈です)

やなせ氏もそうだっただろうと言いたいわけではありません。死んだ人の考えを今更どうこう言うのは不可能ですし、失礼だと思う。そうだったとは言わないけど、違ったとも言えない。残された言葉を読み解けば、あながち荒唐無稽なヨタ話でもなさそうだ(…と今主張するのは別に問題ないでしょう)。

自己犠牲こそがこの世で正義と呼ばれる唯一のことだとしたら、武力をふるって人を傷つけることはいつの時代でもきっと悪でしょう。そんな思想がアンパンマンを産み落としたのは確かです。特攻隊云々は思想の背景にすぎないでしょう。飢えた人々に自分の持つ食べ物を分け与えることこそが、この世で唯一正義と言われ、何ら恥じることのない自己犠牲なのです。

つまり、無駄に必要以上に飯を食い、ぶくぶく太ることは悪なのです。食欲はなるべく抑え、暴食に走る自分自身を恥じることで、少しだけでも食べ物が飢えた人々にゆき渡るでしょう。

やなせ氏はこんな言葉を残しています。

ぼくに言わせれば、悪人を倒すことよりも、弱い人を助け、ひもじい人にパンを一切れ分けてあげるほうがはるかに正しい。ぼくが望む正義は、それほど難しいことではないのです。

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