スポーツ

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子供の頃はスポーツが大嫌いで苦手だった。

何でかは明らかだ。異常にマッチョな学校教育のせいである。子供は体育ができないととても恥ずかしい思いをすることが多いのだ。


何をしてもそうだ。球技を皆ですれば下手くそな奴はチームの足をひっぱるので軽蔑され、逆に上手い奴は勝利に貢献するので歓迎されるのだ。

マラソンなんて、足が遅いやつはデブとグズと知的障害と相場が決まっていた。ちょっと可愛い女の子に何周差もつけられたり、ノロマなデブにさえマラソンで大敗を喫する自分が心底情けなく、自信はなくなり、人からも馬鹿にされ、今の言い方に翻訳すれば、カーストはかなり低いほうであった。

学校は法の支配の外で、子供が単身でサバイバルを強いられる場所だ。道徳の概念が未整備で、野蛮なガキがうようよ彷徨く危険な場所。法は効力を持たず、教師の暴力と、国家イデオロギーが善と悪を支配する。

精神には幻影を。肉体には暴力を。
ーーバクーニン

なぜかはわからないけど、スポーツができないやつはグズなんだよな〜。それは本当なんだよ。運動苦手なやつは何やらせてもど下手くそで不器用でミスばかりしてるんだよね。勉強もできないことが多い。漫画によくあるような、運動できない勉強の虫、なんてのはほとんどいない気がする。運動できる子は勉強もある程度できるし、逆もまた然りだ。

まーおれはそんなグズで、体育では足の速い運動神経の良い子の引き立て役に徹する童貞野郎であった。足が速くて喧嘩が強くて、自信たっぷりでトークで場を盛り上げられる子が女の子にも好かれた。そんな光景をアリーナで20年近くも見続けたがために、運動が大嫌いになって、もともと興味もないので他のことにのめり込んでいくのだが…

今はフェミニズムがブームで、オンナがどれほど大変で男に抑圧されてしんどいのかとか、そういう話をしてないとパージされてしまうのでみんなとりあえず話を合わせてると思うのだが、そのうち男がどれほどしんどく社会から使い捨ての働きアリのように扱われ、ゴミ同然の人生を生き、誰にも悲しまれずに死んでゆくのか、語る手合いも増えてくるはずだ。

そんないうほど甘やかされてきたつもりはない。
俺は親以外の人間に飯を世話してもらったことはないし、それを期待したこともない。黙って座ってるだけで求愛された経験もない。何かができなくて頼りなくて可愛いね💖なんて思われたこともないし、黙って下向いてるだけで周りが何から何までお膳立てしてくれた経験もない。(子供の頃はなんぼでもあるけどね。子供だよなこういうのわ)

日本の男はどんな劣悪な酷い環境でも黙って働き続けなきゃならないし、たとえ癌になってもリタイアすることを誰も容認しない。体動くでしょ?仕事辞めるほどじゃないでしょ?ローンはどうするの?と働き続けることを余儀なくされる。誰も甘やかしたりしない。そしてその結果汚いオッさんが野垂れ死んだとしても、だれも顧みることはない。大昔からそれは人類社会のコトワリで、男は女よりも大抵早く死ぬ。先の大戦でも300万人の日本人が死んだが、そのうち210万人が前線で死んだ男の兵隊である。

女は銃後で困窮を堪え忍んだかもしれない。爆撃の恐怖に怯えたかもしれない。
しかし、男がそうしてる間に榴弾砲の雨が降る中で学生服みたいな格好で敵の陣地の鉄条網を糸ノコでギコギコ引いてたことを忘れてしまって良いということにはならない。
ニューギニアで戦友の肉を喰うほどまでに追い詰められ、あらゆる害虫に全身を蝕まれながら餓死して行ったことを忘れて良いとは思わない。
ムカつく上官に意味不明な理由で虐められ、前線の矢面に立たせられ、死に追いやられたのは大抵男である。

女はガキのように軽く扱われてるのは確かだが、その分ガキを保護するかのように守られてもいる。守られ続けたいけど権利は主張したいというのは幼児の特徴である。イヤイヤ期という2歳ぐらいの子の特徴だ。権利を主張したいなら自立して強く生きねばならない。そう生きれば男はまず寄り付かないだろうが、それこそが誇り高く生きているという証明である。寄り付かない男など相手にせずに、自ら狩りをして男を手中におさめてもらいたい。男はみんなそうしているのだから。

まーそんな話はどーでも良すぎなので終わりにするが、30代後半にもなると、どんなに粗食に耐えて一年中泥のように働いても体重は増えて来る。どこからか生体は口にするものからエネルギーを見つけ出し、脂肪に変換して蓄えようとせっせと仕事をなさるのだ。生きる力は誠に素晴らしい。

原始の頃の人間は、1年で摂取する糖質は小さじ21杯程度であったらしい。現代の飽食の時代を生きる人間は年間小さじ22万杯の糖質を摂取する。10000倍だ。にわかに信じ難いが、人はそれほど糖質を摂取せずとも生きていられたということである。

生きていられた、どころではない。江戸時代の飛脚はフルマラソンに相当する距離を一日に2,3度走っていたようだ。簡単な草履だけで。食事は1日1,2度雑穀まみれの純度の低いおにぎり1つと、粗末な奈良漬けと沢庵だけだったようだ。

それでも人間はそれほどの力を発揮した。老婆ですら、およそ300キロの荷を背負って歩いて山をいくつも越えていたという。全て生きる為の仕事であった。

米海兵隊は、血生臭い太平洋の戦場で、自分より何十センチも背の低い痩せこけた猿のごとき人種が、重さ何十キロにもなる迫撃砲をたった1人で背に担いで運用し、素早く移動しながら正確に攻撃してくるのを目撃し、驚愕した。

幾日にも渡る砲爆撃を受け続けたにもかかわらず奴らは落ち着き払っており、俺たちと同じ目をしていた。

もちろん、過去の日本人は平均寿命がとても低い。多くは赤子のうちに命を落とし、10代前半で結婚し、20にもなれば「いきおくれた年増」であった。30にもなれば年寄りで、40にもなれば既に死の影が忍び寄っていた。人生は本来もっともっと短く濃密であった。

なにもかも変わってしまった世界で我々は生きている。

体はもっともっと過酷な労働にも、粗末な食事にも本来は耐えられるように作られている。にもかかわらず、なぜこんなにも心も体も弱り切ったのだろうか? 40が間近に迫るこの体でさえ、鍛えれば鍛えるほどに体は強くなる。限界を感じ、全ての力を使い切ったとしても、休息すればより強くなり、こないだは手も足も出なかった壁がひょいひょい登れるようになるのだ。

そんな訳で今年を振り返ると、何をしてたかといえば完全に仕事と筋トレであった。公認心理師の受験のために仕事をセーブして勉強ばかりしてた時期もあったが、夏に試験も終わり、それ以降は空いた時間は全部ボルダリングだ。おかげで怪我もしまくりだ。登る頻度が多すぎるのだと悟り、週に2回に意図して抑えた。できた時間で何してるかというとジョギングだ。(筋肉がついて体がだんだん重くなってきたので減量が目的だ)

知能は老化とともに衰え、知識は認知症になれば早晩失われる。
じゃあ筋肉はどうだといえば衰えるが歩行できる、立ち上がれる程度の水準を維持できれば案外人生は豊かだ。家でトイレをし、入浴をし、布団から起き上がれれば家族は誰も老人を疎ましく思ったりはしない。

昔、マラソンをしていました、ハンドボールをしていました、水泳をしていました、何十年も続けていました(←ここ重要)
この手の人々の全身の筋力は衰えたとしても大変強くしなやかで、一時的に損なわれたとしてもリハビリによって容易く強く再生する。

逆に何一つ運動の習慣のない者は、50台ぐらいで筋力が低下して、訳の分からぬ全身の痛みに苛まれ、そのうちに背中や膝が曲がってきて、ふとした拍子に骨折しました、肺炎にかかって入院しました、で、車椅子だ。車椅子に一度乗れば、あまりに楽で便利だから誰も彼もが手放せなくなるのだ。押してくれる家族がいるならもはや自力で漕ぐ必要さえない。そのうち肩も動かなくなり、脊柱の後弯が更に進行し、車椅子に座ってることさえ困難になる。外出せず何の刺激も受けず誰とも会話しない生活は、簡単に脳を萎縮させ、人を痴呆に追い込む。そして尊厳のない死を迎えるのをただ、待つのだ

体は鍛えておいて絶対に無駄にはならない。
後悔することは絶対ない。
体が頑健なればこそ色々なところに出かけて行き、様々なものを見て、感じ、取り込むことができるのだ。

そんな訳で、来年の目標はジョギングを継続することと、ボルダリングで2級を登ることだ。3級がようやくぼちぼち落とせはじめた。もっともっと強くなればもっともっと楽しくなることでしょう。

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