リビドー

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フロイトの理論に局所論というのがある。
局所論…何の印象にも残らない言葉である。
局所ってなんだ?チン×かよ?と思ったが、フロイトは他にも色んな理論を提唱している。

構造論…何だそれは…まったく印象に残らない。
さっきの局所論と混ざってどっちがどっちやらという感じである。
「井戸の構造」なんて覚え方をしたものだ。
イドとは本能に近い言葉だ。人の心はイドとエゴとスーパーエゴから成る、という考え方。性欲もイドから生じる欲動である。

フロイトによれば、イドはリビドー…つまり性的エネルギー=性欲を満たそうと働く。そのエネルギーたるや強烈だ。

スーパーエゴは道徳心だ。イドがなりふり構わず性欲を満たそうとするのを監視し、抑制する。

エゴはイドとスーパーエゴの調整役だ。性欲は暴走するのも抑圧するのも健康に良くない。社会的に望ましい形で満たそうと調停役をかってでる。

よって、イドは様々な形に置き換えられる。
例えばスポーツや芸術だ。


ちなみにフロイトのいろいろな理屈は、こじつけに次ぐこじつけの塊であり、今やまったく科学的な根拠は認められていない。エビデンスゼロだ。フロイトの理屈から作られた精神分析は、最も高名な心理療法だが、日本の国での扱いは極めて低い。

そもそも心理学そのものが科学として危ういと見なされている。唯一アメリカでは認知行動療法(CBT)という名の現実的かつ理論的な心理療法がエビデンス(治療根拠)を認められている。日本でも医師が施した場合にのみ保険点数が認められる。(数多ある心理資格が一つも認められてないのは皮肉そのものである)

フロイトも根拠がないなりに人間の心を明示化するために真剣に考えに考えたのは事実のようで、与太話だと思って舐めてると意外ともっともらしいことを書いてたりする。

とにかく、人間が性欲を満たそうと動くってのは色々示唆に富む。

人間=男しか想定してないかのような書き方は時代を考えればまー仕方がないだろう。フロイトが活躍した時代のヨーロッパは深刻な男尊女卑社会であり、ファシズムとコミュニズムが絶滅戦を繰り広げる揺籃の地となった。
女は人間として想定されない時代である。フロイトはユダヤ人なので国民社会主義にパージされ、ロンドンに逃げたが、どこに逃げようが時代はまだまだ男尊女卑であった。(ナチがフロイトの著作を焚書にしたとき「なんという進歩でしょう。中世ならば、彼らは私を焼いたことでしょうに」と微笑んでいたという。豪傑である)

僕の考えでは、性欲と並ぶぐらい強いのが食欲で、「美味しいものを食べるのが大好きです」「趣味は美味しいものを食べること!」と臆面もなく公言する女の多さを考えれば、若い女は性欲があまり強くない分、相対的に食欲が強いように思える。ほんと、彼女らの食うことに対する執着や美学は物凄い。レンタル屋でAVの棚を物色してる童貞野郎を連想させる。どこかフェティッシュなのである。(それでいて自分が食ったぶんの勘定さえしたがらない。男がタダマンしたがるのとまったく同じである)

男で美味しいものを食べるのが大好きで、趣味です!と公言する人は殆どいないだろう。俺もシュミってそういうことじゃないだろ?と思う。もっと文化的で活動的なものだと理解している。趣味はセックスです!あとオナニーも!と言ってる人いたら即ブロックするだろ?それに似た違和感を覚えるのだ。一次欲を満たすことが趣味というのは、なんかおかしい。そこから派生する二次的な何かに集中することが趣味なんじゃねえか?まあこれは俺1人だけの考え方なので賛同は求めないが。(ちなみにマズローの『欲求階層説』がよく似た理屈をゴネている)

男は空腹を満たせればそれでよく、味はあんまり気にしないと思う。脂っこくてお腹がいっぱいになるものを美味い美味いと喜んで食う。女に比べれば食にあまりこだわらないのだ。

その代わり鬱陶しいぐらい強いのが性欲だ。
性欲はその強さを考えれば、なかなかスッキリ満たすことは難しい。
先の学習性無力感の記事でも書いたが、恋愛は努力がまったく報われない世界だ。でも努力しなければ確率は完全にゼロとなる。恋愛できなければ、性欲をスッキリ満たすことは難しい。必然自慰の回数が増えることになるだろう。

学習性無力感

まあ、自慰でも人に迷惑かけなければ良い筈である。人に迷惑をかけるような満たし方は問題である。だから、自慰をしつつもリーガルな方法で女を口説いて、時々セックスするのが普通の男だろう。

覗きや強姦など犯罪に手を染める者もいるが、それは人に迷惑をかける満たし方だろう。

でも思うのだ。
これ以外にないのか?と。
性欲から全く完全に解放されるすべは無いのか?と。

中学生ぐらいの童貞小僧だった頃、あまりにも強烈に突き上げてくる性衝動に盲目に従うしかなかった頃、本屋のエロ本コーナーの近くで普通の本を見ながら、人がいなくなったらちょっとだけエロ本を手に取って覗き見し、すぐに棚に戻すという変態極まるゲームをしていたことがある。

少年時代、性にまつわるものは恥ずかしいものであった。ましてやエロ本を堂々と立ち読みするなど、これくださーいとレジに持って行って若い女の店員と金のやり取りをすることなど、殆ど不可能であった。

だからそんな真似をする羽目になったのだが、ある日70歳ぐらいの150センチぐらいの小柄なやせっぽちの爺さんが、エロ本を人目も憚らず立ち読みしていた。その堂々とした姿たるや、、、言葉もない。中坊の俺は圧倒された。

まるで競馬予想でも見るかのような、ふっつーの営みとしてエロ本を立ち読みしていたのである。

俺はすごいなーと思った……訳では全然なく、恥ずかしいジジイだなーと思ったものである。ジジイになってもスケべ心から解放されないのかよ、と男という性を悲しく思った。それはよく覚えている。この欲望は死ぬまでついて回るのか…なんて恐ろしいのだ、まるで呪いじゃないかと。

この時の何だかよくわからない絶望というか諦観は言葉にできないです。本当にガッカリした。30秒前までの自分の行いをすっかり忘れて俺は心底悲しくなり、お家に帰った。

まーそんなウブなガキの僕も30を過ぎて性欲はおさまるどころか、フツーに強まってきているようにすら感じられる。そこそこモテて、定期的にセックスもしてるからであろうと自己洞察した。満たされているからこそ、弱まる必要がないのだ。

僕は全然モテない冬の時代も無論経験している。むしろ人生振り返るとそっちのほうが遥かに遥かに長い。その期間は何だかどこか諦めもあり、女の尻を追いかけ回すことにあまり執着しなかった。追いかけ回しても全部逃げられていたからである。(つまり、やはり、追いかけ回してはいたのだ…)ヤレる状況なのに特に理由もなくスルーしたりとか。今思うと考えられない事態だ。

それを思うと、30超えてからの俺のセックスに対する執着はすごい。好きでもない女と結婚し(これは人生で最大最悪の失敗であった)、EDを患った。このまま男として終わるのではないか、という恐怖がその衝動を後押しした。まー、つまり、いろんな女でちゃんと勃つのかを試そうとしたのである。
サイテーだって?その通りです。

皮肉なことに、何故だか知らないがそのあたりから女性を口説くのにそんなに苦労しなくなった。セッスクの自信はどんどん無くなるのにだ。その頃には数々の経験則が調和を生み、成果を出すための一定のリズムが生成されていたからである。

まーそんな訳で、学習性無力感から解放され、努力はまあまあ実る、という現実を素直に受け入れられるようになった。経済的に上向いてきたのもこの辺り。仕事がまあまあ楽しくなってきたのもこの辺り。全部繋がっているように感じられる。男はバリバリ仕事を片付けているとモテるのである。多分誰でもそうである。本当のモテ男は自分で「俺はモテるゼ?」などとは言わないだけである。(モテないか中途半端な野郎ほどモテ自慢をする。つまり俺はそのカテゴリーに属する笑)

しかし、人間いつかは限界が来る…。いつまでもこんな真似はしていられない。
正直、70過ぎてもエロ本コーナーで立ち読みするようなあんなジジイにはなりたくないんすよ…なんとかなんねえか。ああならない方法は?

そこで思い出されるのがフロイトのリビドー理論だ。性的エネルギーを抑圧すると、それにまたエネルギーを使うからあまり生産的ではないのだという。まーそーだよな。納得できる。

もう一つ踏み込むと、性的エネルギーは変換できるから、スポーツや芸術に打ち込むという方法でどうにかコントロールできるというのだ。これを「昇華」という。(フロイトの屁理屈を例えばこんな形でまとめたのは娘のアンナ・フロイトである)

前述の通り、フロイトの理屈は科学的根拠に欠ける。あてにするのは誤っているかもしれない。「変換」ったってどういうメカニズムなのか?まったく説明もなく理論的根拠はゼロだ。

ただ、運動後の爽快感や、芸術や創作活動に熱中してるときは、気持ちよく、性欲から解放されているのを自覚する。これは間違いないだろう。

ボルダリングしてるときはいかにしてあの壁を登るのか?それしか考えてない。雑念も何もかも全部忘れて夢中になっている。ボルダリングを終えて帰りの身支度をしてると仕事のムカつきとかそういうのがすぐ戻ってくるんで、ある意味正気に戻るのだが。(やっと最近3級一個だけ登れました…。。)

公認心理師試験の勉強も終わって(無事合格しました)、またそろそろブログを書こう小説を書こうと色々考えていると、目的を達成するために夢中になり、雑念は全部綺麗に消える。まー集中するのをやめるとまたすぐ元に戻るのだが。

こう考えると、フロイトの「昇華」は少なくとも俺の中では的を得ているのだ。というか、仕事中にムラムラすることって全然ないんで、何かに集中してれば多分人は性欲から解放されるのだ。ここが重大なヒントだとは思われるが。

結論を申し上げれば、人は仕事とスポーツと文化的な創作活動に熱中してれば、少なくともその時間は性欲から逃れられるわけだ。何にもしてない時間はどうしてもあるから、その時間は自慰でもするしかない。もしくは付き合ってる女がいればその人にお願いすれば良いだけだろう。

とはいえ…この理屈が正しいなら超一流のアスリートは男も女も超潔白な筈だが、俺の知る限りスポーツマンというのはドスケベ野郎ばかりである。モテるからか、極度に女癖が悪い奴が多いように思う。あの肉食の世界は自分なんてかわいいもんだ、と思える。ほんとに。
アスリート女は知らないけど、経験則でいえばスポーツを好む女はセックスもすごく好きな気がする。サブカル女もベッドの中では豹変する気がする。まーこの辺も単なる経験則でエビデンスはありませんけどね。

生命エネルギーの過剰な人間が、極端にスポーツや趣味に没頭し、有り余るエネルギーで猛烈にセックスしてるのかな?

みんなはどう思うよ?
(この記事はまたGoogleに怒られるな。しょっちゅう怒られて広告を止められております。ポリコレとかダイバーシティとかこの国には不要だ!クソッタレ)

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