聖闘士星矢を、語る

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ここ半年ぐらいで、スマホゲームの「聖闘士星矢ゾディアックブレイブ 」にハマって毎日不毛なバトルを繰り返すうちに俺の中の小宇宙がどんどん燃えてきて、結局コミックスをほぼ全部買い直すという事態に至りました。何してんだ俺は。夏には試験受けるのに。

そこで、色々な外伝作品も読んだんすけど、やっぱり車田が書いた原作こそが至高だとの結論に至りました。


これは、はっきりいうならキャラクターものど真ん中な作品で、ストーリーは古臭くてありふれた内容なのである。

小学生の頃は無批判に何の主義も主張もなく、読むしかないから読んでいた感じである。テレビもついていたから見ていた。ただそれだけのはずなのに、なぜここまでアラフォーのど真ん中まできたこのワタクシが胸を熱くせねばならんというのか……。幼少期に体験したアレコレは一生人生を拘束するのだ。怖い話である。

スマホゲーム、ゾディアックブレイブの特徴はその地獄のごときガチャ仕様である。ゲームは戦って敵を皆殺しにするという、ただそれだけのシンプルゲームなんだが、勝つためには強いキャラをパーティに加えねばならない。その強いキャラを入手するためには数十枚クラスの一万円札が必要という仕様なのである。なんぴともこのことわりから逃れてこのゲームを楽しむことはできない。

そこで好きなキャラ、強いキャラ、思い入れのあるキャラをパーティに組み込むため、必要になるのは時間や努力ではなく、単にお金。それ以外の選択肢は完全に否定されており、課金せずにどうにか石をコツコツ集めたとしても、その低すぎる当選率を前に敗退するのがオチ。

まあ、そんなわけだがワタクシも意に反して結構な額を支払わされるハメになったのだが、そんなことしてまで手に入れたキャラ達はやっぱり大事に育てるわけだ。ゲームで使ってるうちに愛着もわき、原作を読み直したくなる。完全に策にハマっているわけなんだけど、もー仕方ない。

そんなわけでコミックスを読み直したんですけど、車田作品に流れる極端なまでにファンダメンタルな武士道の精神に気付かされたんすよね。今日はその話をします。

聖闘士星矢によくいわれる批判は、ワンパターンだよ、というところである。キャラが命を燃やして戦って敵と相打ちになる。で、何食わぬ顔でまた生き返って再登場。で、より強い敵とまた戦って相打ち…以降その繰り返し。

ガキの頃はあまり気にならなかったんすけど、命を軽々と投げ出し、でもすぐ生き返るってどうなの、ずるくない?紫龍。と大人になったボクは読みながらこう思いました。

紫龍に限らないですけど、氷河も瞬も一輝兄さんも主人公の星矢も、あっさりと小宇宙を限界まで燃やしてだな、俺はもうこのままここで死ぬけど後は頼んだぜ、兄弟、みたいな。ヤクザか過激派のテロリストのような行動理念な訳である。思想の高みに到達する唯一の手段は、その思想のために死ぬことである!などというカミュの名台詞が思い出される。(水瓶座のカミュじゃねえぞ、作家のカミュだぞ。)

だいたい、聖闘士星矢ヤバイだろ。聖闘士達。よく考えたらギリシャ神話の原理主義者だよな。アテナのため、地上の邪悪と戦い、愛と平和を守る、ってなんだそれ! 中央アフリカの『神の抵抗軍』みたいなこと言うな! 少年ばかり集めてカルトに心酔させて兵士に仕立て※、自殺的な任務に駆り立てる。信じらんない! さしずめジョセフ・コニーは教皇か?サガの乱なんて赤軍派の内ゲバみたいなもんじゃないか。こんなのが一時期は日本アニメ界を席巻していたのだ。酷い話です。

※聖闘士はほとんど13〜18歳の少年兵士。黄金聖闘士のみ全て20歳以上。サンクチュアリは儒教的年功序列の縦社会だ。「神の抵抗軍」に似ている。

ワタクシは思うのだが、結局ニンゲンはこういうのが好きなんじゃないだろつか? 思想のため、自らが掲げる正義を貫徹するため、たった一つしかない命を平然と投げ出す。作中で星矢達はそんな真似しないけど、思想のために死ねるニンゲンはだいたい思想のためにニンゲンを殺せるのだ。

カルトや手段を選ばぬ実力行使、命を捨てて何かをやり遂げる、その為の使命感、連帯、規律、ブレない信念……そういう諸々が大好きなんだなきっと。

でもね。
車田作品の「星矢」がすごいのはだな。俺がここでごねてるような話はとっくにご存知ってことなんだよな。

作品の中には思想のため、自らの正義のため、平気で人を殺す聖闘士も普通に存在してるんすよ。力こそが正義。価値はうつろいやすく、脆いもの。敗者は何も残せず消えゆくのみ。ならば勝たねば意味がない。
そんな悪い聖闘士の極北が蟹座のデスマスクであろう。まさに似たようなセリフを吐いて主人公達を唖然とさせている。

↑の紫龍とデスマスクの対決は名シーンもいいところだ。12宮の戦いで他に覚えてるとこなんてないし。

思想のためにすぐ自分の命を捨てようとするサムライ魂丸出しの紫龍と、悪を懲らしめるためなら子供でも平気で殺す過激派テロリストみたいな行動原理のデスマスク様。極端なファンダメンタリストの二人。俺から言わせたらよく似たオフタリさんである。

まあ、さっきから、イスラム教の変態テロリストとかアフリカのキチガイ野蛮人に例えたりだとかしているワタクシだが、このお二人の行動原理は間違いなくニッポンジンの琴線にも触れる。ブシドーによく似た思想だ。武士道とは死ぬことなんだもん。敵と刺し違えてでも理念を達成する。思想を貫徹する。女子供の涙などに頓着しない。極端なまでに前近代的な価値観。80年代〜90年代のヒーローものの根底に流れるのはこのような古臭い精神であった。

俺的に聖闘士星矢で最も感動する名シーン。

「う…うう なんという強じんさだ!
この男には死者に対する恐怖も自分が犯した罪にもいささかも心が動揺していない!」
紫龍も半ば以上呆れている。無理もない。

30年代〜40年代のヨーロッパでも、似たような価値観が流行ったのだ。ヒトラーは第二次世界大戦前夜、兵士達にこう語った。

“憐れみに対して心を閉ざせ。獣のように行動せよ。八千万国民は当然の分け前に与かるのだ。彼らの存在は保証されねばならない。強者のみが権利を持つのだ”

↑のデスマスクの発言とニュアンスこそ違えど、似たような意味合いを持つ言葉だ。

彼ら二人はよく似た世界を目指した。曰く弱肉強食の世界の実現である。これが好きなのはキチガイの田舎もんのオーストリア人と、アフリカの野蛮人だけか? 全然違うだろう。日本人こそこれを好む。

日本人は弱い者は無視する。
弱者、病者、障害者がもがき苦しみ勝手に死のうが知らん顔である。

極端な個人主義。自分の子でさえ死ぬまで嬲り続ける親もいるが殆ど何の罰も受けない。車でヨチヨチ歩きの幼児をミンチにしておきながら、自分は悪くない!プリウスが悪いんだなどとぬかす。力のみを追い求めると強者は必ず弱者をいたぶるようになります。普通は弱者を守るために力を振るう者などいない。力はだいたい強者を保護するために使われます。

自分とその周りだけが存在を保証されればあとは何でも良いと皆が無意識に思っている。
これに逆らい、弱者を助けようと思うなら自分の資源を分け与えねばならない。そうしてもしも弱者が生き延びたなら、今度は養わねばならない。弱者はやがて繁殖し、力を蓄えこちらより優勢になる。すると助けられた恩などコロリと忘れてこちらを攻撃してくるでしょう。ならば情など捨ててくたばるに任せるべきなのです。これは結局のところナチズムによく似ているといえるのです。

そのような正義の矛盾を奥歯で噛み締めながら、星矢たちが何度もボロクソにされ、その守るべき価値を否定され、文字通り何度も命を差し出しながら敵と戦う。そして、何度も殺されそうになりながらも、きっちり敵は皆殺しにする。彼らの純粋さは…その純粋さにのみ俺は同意する。

まあ、実際星矢たちは弱者を守り、地上の愛と平和、正義を守るために戦っているのですが、
敵にももちろんそれぞれに正義があり、敵も自らの正義を守るために必死で戦っているのです。

そんな正義と正義がぶつかり合い、少年達が価値観に殉じ、挙句には命を散らすサマは儚く、なんとも言えない感動を覚えてやまないのです。40手前で聖闘士星矢に号泣しちゃった今日この頃です。