戦後は遠くなりにけり

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戦後、日本人は戦場をあまり語りませんでした。戦争を語った人はたくさんいたけど、「大変だった」「戦争は良くないよ」と言って終わりになる場合が多く、自分が戦った異国の戦場を詳細に語る人は多くなかった。代わりにめっぽう語られたのは銃後の困窮した生活、国内での生活だ。ひもじさや空襲、原爆の恐怖が何度となく語られた。語り手の多くは戦場を知らぬ女や(当時の)子供達だった。彼らは自らの父や夫が如何なる場所へ送り込まれ、どのような生活を送ったのかを知らない。兵士の多くは復員したのちも当時の話を滅多にしなかった。黙して語らず。あの世まで持って行く者もいたし、老境に差し掛かり漸く語り始める者もいた。古くなった記憶は多くの場合精確さに欠き、曖昧かつぼんやりした内容だった。

「太平洋の血なまぐさい戦場で、いかに勇敢に日本の陸海軍の将兵たちが戦ったか、アメリカ人以外、いったい誰が知っているでしょう?」
ジョン・トーランドは『大日本帝国の興亡』においてこう書いた。太平洋の血生臭い戦場は、アメリカ海兵隊が語り部となった。かつての敵国は最も洗練された民主主義を持って太平洋各所での死闘を時には客観的に語り、後世に伝承した。焦土と化した内地で生き残った日本人は、同胞が異国でいかに勇敢に、惨めに無様に死ぬまで戦ったのかをよく知らないままだった。太平洋〜東アジアに出征した兵士の多くは如何なるメカニズムのもとなのか、本当に信念と呼ばれる何かがあったのか、部隊が全滅し、自分も死ぬまで戦い続け、部隊の死傷率はほとんど100パーセントだった。狂信的な愛国主義なのか、戦死することで死と飢餓の恐怖から逃れたかったのか、家族に遺族年金を与えることがせめてもの意地だったのか、はたまた死ぬことが世間体だったのか、公式には国のために死んだのである。今では侮られ、軽んじられ、唾を吐かれてばかりのくだらぬ国家なる概念のために。

日本兵の狂信や常人離れした耐久性や勇気、国を愛する心は自然とインターネット界隈を席巻し、現代人を感嘆させてばかりである。だが、それがなぜそうだったのかというのは全然ぼんやりしたままである。

加えて、まだまだほとんど語られていないものがある。中国大陸での戦場である。太平洋の死闘はスピルバーグでさえ映画化したが、中国大陸での戦場はいまだ謎のベールに包まれている。これには二つの理由がある。当事国であった中国国民党が戦後すぐに共産党との権力争いに破れ大陸から駆逐されたからである。後に残った真っ赤な人民政府は、二千万人の中国人を人為的に飢餓に追い込み、穴に蹴り落として銃殺し、人類史上で最も過酷な中央集権の独裁国家を作り上げた。それから戦争中の日本人の行為を過度に誇張してプロパガンダを流し、国民の憎悪の矛先をこの島国へと向けようとしている。これは無論情報戦のいっかんである。

かたや戦に敗れた日本人は戦場で中国人を殺した話などできるはずもなかった。国内同胞からは軽蔑され、石を投げられ、戦勝国のBC級戦犯狩りは復員兵にとってかなり差し迫った恐怖だったからである。千人以上の元日本兵が戦争中の行為を罪に問われ絞首刑となった。身内や家族にさえ、戦場での暮らしを語ることはできなかった。語ったとしても残忍な話はできなかった。農村で中国人と仲良く飯を食った話ぐらいならできそうだったが、生肉狩りと称した姑娘(クーニャン)への集団レイプの話など妻や娘にできるはずもなかった。こうして中国大陸での戦場はブラックアウトし、独裁政権の電波だけが飛び交うといういかがわしい世界へと変貌した。真相究明はもはや不可能となった。中国大陸で戦った兵士達の多くは既にこの世を去ったからである。

だが、ごく僅かながらに元日本兵の証言を集めた文学や映画、ドキュメンタリーが存在する。これらは中国大陸での日本の兵隊の生々しい営みを活写している。もちろん、映画や文学は創作である。完全に信じることはできない。ましてや歴史を証言するなど無理な話。ただし、雰囲気は伝わるのだ。

「ゆきゆきて、神軍」「軍旗はためくもとに」「野火」は太平洋の戦場での飢餓と疫病、軍上層部の無能と冷酷さ、その結果の惨めな戦場を示唆した。

「あれよ星屑」「赤い天使」「生きている兵隊」は中国大陸の戦場での兵士達の性暴力の実態を描いた。

「静かなノモンハン」「独立機関銃隊、未だ射撃中」は軍上層部に見捨てられた現場将兵の勇敢さ、困窮、ソ連軍の圧倒的な火力、死と向き合う兵士達の葛藤を描いた。

戦争の最終局面においても中国大陸や東アジア、太平洋の島々に200万を超える第一線級部隊が待機し、国から死ねと命令されるのを待っていた。それがこの平和な羊のような島国の、つい70年ぐらい前の光景である。幾千万通りの戦場での生活があったにも関わらず、彼らの多くがほとんど当時を語らぬままこの世を去ったのは驚きである。いま、当時を知る手がかりは上で挙げたような文学や映画、漫画、ドキュメンタリーの中にしかない。

「この世界の片隅に」は確かに良い作品かもしれない。「火垂るの墓」は戦後文学の傑作だ。しかし、これらの作品に「戦場」は全く出てこない。「戦場」を知るためにもっと違った作品を鑑賞する必要があるのかもしれない。「戦場」を描いた作品は、たぶん数字の取れない、恐ろしく過酷な世界である。それこそが戦争の本来の姿なのだ。そして、ひょっとしたら日本人は自分たちの正体をその中から見出すかもしれない。本当に世界中から愛される礼儀正しい、平和を愛する国民なのだろうかと。ひょっとしたら世界でも類を見ないほどの、好戦的な戦闘民族なんじゃないか、その可能性もあるんじゃないか、、と。

ぜひ皆様にはこの夏、戦争の裏も表も舐め回してもらいたい。案外、中国人や朝鮮人が怒り狂う理由が見えてきたりして、思考のパラドクスに襲われ悶絶する羽目になるやも、、、これも脳の健康に悪くはないはずです。