ヘイトスピーチ?

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最近言葉狩りが酷いと感じている。前にもこういうのを書いたんで、僕の考えは基本的にこの辺りでブレてはいない。でなきゃこんな口の悪いブログは作れないし継続もできるわけない。あまりに言葉狩りが酷いと、ちょっとこちらの運営にも関わってくるんで一言申し述べたい。


ヘイトスピーチなる言葉が日本で流行りだしたのは、桜井なるデブに率いられる在特会とかいう気狂い極右政治集団の暴力的なロビー活動が問題視され始めた頃だ。その頃と完全に一致する。異論は出ないだろう。

で、ヘイトスピーチなる言葉はしばらく基本的に朝鮮人、それも韓国人や在日朝鮮人に向けられる人種差別的なおちょくり行為や侮辱行為全般を指していた。

本来のヘイトスピーチという言葉はもちろん朝鮮人だけを対象にしたものではない。もともとは西側民主主義から輸入されてきた概念であって、「ある人種、ある宗教、ある共同体に属する人々に向けられる差別的言動」のことだ。

同じような文脈で「グローバルスタンダード」や「ポリティカルコレクトネス」などの言葉もよく使われてるが、「ヘイトスピーチ」が特に忌み嫌われるのは、『ある共同体に対する集団的抹殺行為=ジェノサイドの第一段階と見なされているから』である。

20世紀前半に興ったドイツとロシアの革命政府は、たったの12年で自国民や周辺国に住まう夥しい数の罪なき民を餓死に追い込み、穴の底に蹴落として銃殺した。犠牲者は14000000人に達する。誰一人武器を持っておらず、ほとんどが衣服や財産を没収されたうえで殺された。そうなる前段階として、政府が大々的に発した恐るべきヘイトスピーチが、国家規模でばら撒かれていたのだ。新聞やラジオ、政治指導者による演説の場などで。

ロシアやドイツの狂態は、常に我々の反面教師である。
残念ながらマスコミは、今のところ(少なくとも歴史を見る限りでは)憎悪をばら撒き、『敵』に対する闘争心を焚きつける役割を果たしてきた。失敗新聞社、「朝日新聞」が正に好例である。戦時中は戦意高揚記事や大本営のデタラメな戦果記事を無批判にばら撒き、今は反省でもしたのか自民党を叩くことにしかアイデンティティーを見出せぬ年寄り御用達の老害メディアとなっている。

叩く対象が変わったとはいえ、朝日が今でも国民の憎悪を焚きつける行為の最先端にいるのは変わりない。困ったものだ。

とはいえ、現代はより複雑だ。テレビ、インターネット、SNSなどが大手新聞社よりよほどパワフルな憎悪拡散装置として機能している。

日本でも「ヘイトスピーチ」の概念は自然と本来の形に進化して行き、韓国・朝鮮人だけを指す言葉ではなくなり、今やジェンダーやスクールカーストの場などでもヘイトスピーチだヘイトスピーチだと言葉狩りするための破壊兵器として恣意的に運用されている。

だいたい、よく考えて欲しいんだが、例えばレイモンド・カーヴァーの短編に「でぶ」という作品がある。

ある日、レストランにとある客が来店。お上品で何の問題もない客だが、途轍もないでぶである。そのでぶに給仕するウェイトレスの女性。本来的に優しく、人間味に満ちた彼女は特に何も感じず特別扱いすることもなく普通のサービスを提供。「でぶ」は普通に出されたものを美味そうにむしゃむしゃと食い、ウェイトレスはむしろその食いっぷりを好ましく思うのだが、同僚たちは違う。

ひえーとんでもねえでぶだな、ありゃ。
あんなでぶ相手にしてたら嫌になるだろ?
本当にひどいでぶね。何食ったらああなるのかしら?

といった具合に悪口を連ねている。そうとは知らず、出された料理とウェイトレスのサービスにご満悦のでぶは満足して帰って行く。店が閉店になり、同僚で恋人の男性と一緒に帰る女性。お腹には散々でぶの悪口を言ってたそいつの子供がいる。女性は子と自分の将来に漠然とした不安を抱くのだ。

…色々と示唆される。声高な主張は全然なく、大変に文学的な抑えられた筆致。村上春樹訳なのがまた味わい深い。

人々の憎悪や悪意、軽蔑、差別感情は実に無軌道だ。「これ」を無批判に受け入れ、寧ろダークサイドの推進力を『革命』と称したのが20世紀前半のロシアやドイツで、その反省から「これ」を必死で抑えつけようと努力してるが空回りしてるのが今の西側諸国や我が国である…と考えたらしっくり来ないだろうか?

太ってる人間を「このでぶ野郎!!」と罵る奴はどう考えてもいなくなったりはしない。
同性愛者を「このカマ野郎!!」と罵る奴もどう考えてもいなくなったりはしない。
200年経ってもいなくなったりはしない。

たぶん韓国・朝鮮人を「このキムチ野郎!!」と罵る奴もいなくなったりはしないだろう。

憎悪や悪意、他者と自分を区別して自分だけを可愛がり、他者を排斥する閉鎖性はたぶん我々の一部だからである。

もー仕方ない。。。

憎しみも怒りも、自分だけが可愛いのも、元より人間の本来的な姿であって、言葉だけで否定してみせたところでいなくなったりはしないのである。

だから、我々はそのような閉鎖性を見ないふりしたり、偏狭そうに見える人間を攻撃したり言葉狩りするのではなく、「おれにもああいう部分がある。ついああいう風に思ってしまうし言ってしまう。おれとあいつに大した違いはない。というかほぼ同じだ」と自覚するのは大事だ。自分と似てると思えば不思議と憎しみは薄れて行くものであるし、何故そのような憎悪が生まれたのか考察しなければ問題は解決しないのでは? どちらにも与しない、冷静な態度が求められるのは勿論だが、時にはどちらの身にもなって考えてみる、というアチチュードが必要だ。なんでそう思うのか理解しようと試みないとねえ。

「自分と違う。違うものは遠ざけたい」との認識が差別の根幹であるから、どんなに意見が違っていようとも「頭の悪いネトウヨ」とか「お花畑のパヨク」とか、そんなこと言っちゃってる時点で我々は等しく閉鎖的で排他的な「人類皆兄弟」なのだ。

憎悪や嫉妬や閉鎖性を全部否定し、そういう言葉を言っただけで考えただけで集団でリンチするというのは人間に人間でなくなれ!と言ってるに等しい。そんなことを真面目にやったらポルポトと同じである。あらゆる文学も死ぬ。

みんなで仲良くするために、自分の一部である閉鎖性を受け入れてみたらどうかな? 醜い本性に自覚があれば、いざ憎しみに駆られたとしても自然とブレーキがかかるんじゃないかな?