ゴーリキーは偉い

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Russian writer, public figure, founder of socialist realistic literature and journalist Maxim Gorky (1868-1936).

4月を目前に控えている。あっという間だった。。本当に時間ってのはコントロールが難しい。意味のある一ヶ月にしようと意気込んだところで大したこともできなかったし過ぎ去ってしまえば余韻も何もあったもんじゃない。ただ過去として消えていくのみだ。一ヶ月休んだからといって、今後一年無心で働けるかってそういうこともない。昨日ばくばく食ったからと今日は何も食わないということもできない。人はエネルギーを貯めるということはできないのだ。


先週、仕事全然してないのに、普通に腰を痛めて3日ぐらい寝込んだ。あまりの情けなさに心底自分にガッカリしたが、働こうが働くまいがおれの腰はもう一生治らない。覚悟を決めるしかないのだ。

そんなわけで4月から公私ともに多忙になる。モラトリアムをだらだら引き延ばすのもこれで最後だ。再び現実という戦場へ赴いて金と時間の奪い合いを延々と続けるのだ。

自分の時間がどんどんなくなるのは何より辛いことだ。しかし、先日ロシアの作家、バーベリとゴーリキーの文学全集の解説文をつらつら読んでゴーリキーの幼少期〜青年期までの異常な過酷さを知った。少しここでご紹介しよう。

ゴーリキーは1868年にヴォルガ湖畔のニージュニイ・ノーヴゴロドで生誕。農民でも労働者でもなく小市民階級の出身で、父は家具職人だった。幼い頃から暮らしは貧しかった。3歳のときに父がコレラで死に、母の実家に帰ったが母はその後失踪。ここから「重く淀んだ、まだら色の、なんともいえぬ奇妙な」生活が約8年続く。それは人の憎悪、残忍、偽善、貪欲がむき出しとなった日々だった。女や子供に対する暴力が日常茶飯事であるような生活、ゴーリキー自身「時として、すべてがまさにこのとおりであったとは容易に信じられなくなるような」生活であった。

そんなゴーリキーにも唯一の慰めがあった。それは祖母アクリーナの存在だ。祖母はかしこく、善良で、天分豊かな、「世界に対する無私の愛」に満ちた人物であった。ゴーリキーは祖母から「過酷な人生に耐えて行く強い力」を学んだのだ。

しかし、どんどん暮らしは苦しくなって行き、ゴーリキー自身屑拾いや材木盗みなどに精を出して生活をマシなものにしようとしたが、やがて失踪していた母が戻ってきてすぐに死に、その頃からゴーリキーは11歳にして社会に出て働かざるを得なくなる。

こうして未来のロシアの文豪は、小学校さえまともに通えないままあらゆる仕事をする。すべて生きるためであり、なまっちょろい自己実現や趣味と混同したような愚鈍で猥雑でブルジョワ趣味のお仕事ごっこではない。それは正しく生きるための戦いであった。靴屋の小僧、製図工の徒弟、船に乗って皿洗い、売店の売り子、芝居の下っ端役者……例えばこれらが、11歳から15歳までの5年間でゴーリキーが生活費を稼ぐために従事した仕事だ。彼は「ほとんど失神するくらい」働いた。仕事はいずれも深夜に及ぶ苦しい肉体労働であり、給料は不当に安く、しばしば残酷な体罰を伴った。製図工の徒弟をしていた頃、ゴーリキーは雇い主に松の枝で殴られて背中が枕のように腫れあがり、病院で42個の木切れを抜き取ってもらったという。

こうした環境の中で、ゴーリキーの唯一の楽しみは読書だった。ゴーリキーはいつしか貪るように本を読むようになった。フランスの冒険小説や、探偵小説、イギリスやロシアの小説もたくさん読んだ。
「わたしはいい本がどのようなものかということをしみじみと感じ、その必要を理解した。これらの本によってわたしの心の中には、自分はこの地上で一人ではない、自分は滅びないだろう、というしっかりとした確信が静かに根を下ろした」

本に勇気づけられたゴーリキーは、やがて自分も貧しい人に希望を与えるような物語を書きたいと願うようになる。

1884年、16歳の時にゴーリキーは勉学への激しい情熱を持ち、ヴォルガ湖畔の街カザンへ赴いた。受験勉強をして大学へ入るためだ。しかし、望みはかなわず、生活のための戦いはなおも続いた。彼は浮浪者や売春婦の住む貧民窟に身を潜め、波止場で荷あげ人足をしたり、異常に過酷な労働環境のパン工場で長く働きパン焼き職人になった。生活の重圧は時として人生の目的を失わせ、ついに彼を自殺未遂へと駆り立てた。1887年、ゴーリキーは市場で古いピストルを買ってきてそれを胸に向けて発射したのだ。さいわい弾は左肺を撃ち抜いただけで心臓を逸れ一命はとりとめた(しかし、この後遺症で生涯肺の病に苦しむ)。

カザン時代にゴーリキーは革命家たちとの人脈を作り、マルクス主義者となった。しかし、彼が思想を持ったのはマルクスの著作を読んだからではない。彼は後年こう述べた。
「わたしがマルクス主義者であるのは、マルクスのおかげではなく、わたしの皮膚がしたたかぶちのめされたためです。どんな本よりもよく、かつ徹底的に、わたしにマルクス主義を教えてくれたのはカザンの商人セミョーノフのパン焼き工場です」

1888年、ゴーリキーはヴォルガとドンの間に位置するヴォルゴグラード近くの駅で鉄道員となって夜景、計量員などの仕事をした。荒野の真っ只中での勤めはひどく孤独で退屈なものだった。彼はここでも読書に耽り6つの駅に置いてある本を全部読んでしまったという。
翌年、生まれ故郷のニージュニイへ戻ると官憲に革命思想を疑われ、本格的に監視下に置かれることになる。1905年までに逮捕された回数は5回を数えた。
ゴーリキーは21歳の頃、自分の人生を見失っていた。自分を取り巻く愚劣さ、残酷さ、小市民的無関心、知的荒廃に心底愛想をつかしていたのだ。しかもそこから逃げる手立ては何一つない。強すぎる感受性は彼をこれ以上ないほど苦しめていた。この頃、手痛い失恋も経験し、、1891年、放浪の旅に出る。

……とまあ、このような放浪の旅や過酷な労働が、その後作家として大成する彼の重要な基礎となったという話なのだが(あとはウィキペディアでも読んでくれ)、おれが強調したいのは、ここまで酷い環境でも読書をひたすらしていた人間がいたという事実だ。単純に勇気付けられるのである。もっとも当時、ゴーリキーは若かった。おれはといえば、もう36なるし人生の折り返し地点は過ぎている。脳も年々新しいことを覚えられなくなってきている。でもゴーリキーほど不遇の環境ではない。というか恵まれている。

7年前、福岡から横浜に出てきた時、おれは何も持っていなかったのだ。貯金は完璧にゼロだった。友人も恋人も親戚もいなかった。住む場所もなかった。会社の寮だったんで仕事がもしうまくいかなかったら住む場所さえ失いかねなかった。サイトやブログも小銭程度の金さえ生み出してくれなかった。経験も足りず、若造で、出会う人すべてにバカにされ、鼻で嗤われた。車もバイクも持ってなくてママチャリ買うしかなかった(それさえも一週間で盗まれたのをよく記憶している)。何にもない、徒手空拳でここに来たのだ。しかも29歳だったんで、特に若くもなかったしヘビースモーカーで脂質異常症で不眠症で健康にも問題を抱えていた。

その頃に比べれば、今日まで積み上げてきたものは確実にあるのだ。住む場所もあるし、金もある。友人もいるし家族もいるし車も持っている。臆すことなく新しい生活をがんばりたい。ああ、早く働きたい。本は空いた時間で読むしかない。ゴーリキーでも読んでたんだから読めるだろう。ゲームやスマホなどを控えて読書を優先すればけっこう読めるはずなのだ。今年はとにかく読むぞ~~

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