読みたいけど未読、、、という本が10冊以上あるのに、また新たに10冊ぐらい購入してしまった。これはいよいよやばいことに。
それも一冊一冊上下巻あわせて1000ページ級の小説や学術本ばかりが軒を連ねており、いよいよ速読術が必須となってきた。とはいえ、速読術ってなんだ? 元来疑り深いおれは「速読」という言葉を信用しない。
というわけで書評はコスパが悪すぎると観念したが、誰もが情報源をネットだけに頼る時代においてこそアナログ本を黙々読むという作業は重要で、それをしている人間としない人間の差は地球人とサイヤ人ぐらいの差となるだろう(例えが古いか?)
僕もAmazonやらジュンク堂書店やら紀伊国屋やら丸善やらと、とりあえず本屋にはいつも入り浸っているが、世の中にはこれだけ膨大な本がある。図書館行っても膨大な本がある。おれはレーニン大好きだけど、一冊600ページ以上ある「レーニン全集」(全47巻)なんか、一体だれが読んでいるんだ?読めるというのか??無職になったとしても読むのに50年ぐらいかかりそうじゃないか??(たぶんわかりにくいクソかったい文章で書かれているぞ・・大げさな話じゃない・・)
「レーニン全集」だけでも50年ぐらいかかる。。そう考えたとしたら、本屋や図書館にある面白そうな本や興味惹かれる本たち、いったいあとどれほど読めるというのだ?
残りの人生で読める本はいかばかりなのか、、、特におれは読書が遅いほうで、村上春樹の新作でさえ一ヶ月もかかってしまうのだ。
しかし人間の眼球運動の性能を考えた時に、1分間に追える単語は200~400語ぐらいで、どんなに速くても500がせいぜいだとか。眼球運動の差に個人差は多くなく、速く読めるという人は、結局のところ不要そうな単語を読み飛ばしているらしい。つまり、「読んだ」という自己申告は「内容を理解した」とは決してイコールで結べないし自称読書家と相対した時に感じるよくある違和感は真っ当である可能性が高いのだ。ゆっくり読む人のほうが内容を深く正確に理解している可能性が高いわけだ。「速く読む」ってのは眼球を早く動かす、情報処理を脳に急がせるってものではないし、そんなこと人間は意識的にはできないのだ。アホに「よく注意してテストのときだけ天才になりなさい」って言ったって無理なのと同じ。
速く読むってのは基本的に読み飛ばしているってことなわけよ。にもかかわらず「おお、おれあの本読んだよ」って人は簡単にいうが、たとえ「少年ジャンプ」だって隅から隅まで全部読んでるわけじゃあるまい。でも、「おれ今週のジャンプ読んだよ、、つまんなかった~~」って簡単に言えてしまうわけだ。漫画でさえこうなんだからな、、、字ばっかり1000ページの本を、一体いかほど真面目にちゃんと読んでいるのだろうか? ほとんどいないのでは、、、ひょっとしたら1000人に読ませても5人ぐらいなのでは・・・
当然だが、読んで知識を得て内容を吟味して「おもしろかった~」と言いたいわけだから、おれは割としっかり読む。となると読むのは遅い。遅いと人生の残り時間を想い、あと何冊読めるのかと気になり始める。読書にさける時間は年々減っている。学生の頃のように本を読む時間が無限にあるわけでも、本を読んでいたら「お利口さんだね♡」と褒められるわけでもない。書くのも孤独だが読むのも孤独だ。たとえ「レーニン全集」を50年かけて読んでも、書いたレビューのウェブ拍手は2個か3個だろう。報われない世界なのだ。
とりあえず、これだけ連なった未読本をやっつけていくのに、最も有効な方法は読書の時間をまめに作ることだろう。決して適当に読み飛ばして「もう読んだゼ?」とTwitterにアップして自己暗示をかけないようにしたい。映画鑑賞も読書も「知的人間アピール」をするツールではないのだ。ゆめゆめ、自戒をこめて。