エンタメか純文学かファンタジーか③

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前回のエントリはこちら。

今日は戦争や歴史を扱う際にフィクションを取り込む難しさについて語りたい。
この一連の小話はおれの創作の今後に関して重要であるというだけで、皆様におかれましては重要でもなんでもない駄文であります。無理に読まなくて良いですんで興味がない方はお帰りください。


”史実に基づいている”
というのは戦争映画や歴史映画の冒頭に出てくる定番の決まり文句だが、基づいてはいるが当然全部事実ではない。
寸分たがわず史実だけを描いたつもりでも、演じている俳優が当人とは別人なのだしセリフの言い回しも変えられていたりするので、何もかもが事実なわけはない。

極限まで事実だけを描いた感じがする「ドキュメンタリー映画」というジャンルでは、一定の主張を高らかに宣言するために、作者に都合の良い場面だけを切り取ってコラージュし、不都合な真実は削除したり触れないようにしたりしている時点で作為的であるし、事実を歪めているといえるので、やはり真実だけを描いているとは言い難い。映像は真実を伝えるメディアには成り得ない。にも関わらず多くの人は映像でお勉強しようとする。

「シンドラーのリスト」でホロコーストを知ったような気になるし、「沖縄決戦」で沖縄戦がわかったような気がしてくる。
どちらも素晴らしい娯楽映画だが、歴史の教材としては落第、というか不十分である。というか、この二つははなから娯楽映画として撮られているし、小難しい顔で考え込んで欲しい、と思って作られた映画ではないだろう。とても官能的で、感情を揺さぶるタイプの娯楽作品だ。

まあ、ここでは映画でお勉強はほどほどに、というに留めて先に進もう。

じゃあ、小説は?
一見演じる俳優もないし、映像ほどは感情を揺さぶる方法ではない。映像とは違い、文字を読むという行為は強い意志と好奇心と想像力が必要であり、新聞のように絵や写真を用いることが少ないという時点で小説は宣伝に不向きだ。

さて、前回も触れた極めて完成された純文学作品「慈しみの女神たち」だが、これは描かれる時代は独ソ戦の開始からドイツの滅亡までである。これは史実。出てくる登場人物もほとんど実在の人物だが、主人公のアウエ博士などメインの登場人物だけは架空の設定である。史実の中を架空の人物が泳ぐという構図である。架空の人物が筆舌に尽くしがたい史実を目の当たりにする。キエフ陥落の混乱、凄惨なポグロム、バビ・ヤール大虐殺、農村の浄化作戦、アインザッツグルッペD隊のオーレンドルフの下へと転籍し、スターリングラードでNKVD将校を尋問したり冬の寒さに凍死寸前の憂き目にあった挙句、帰国。ドイツ国内の能天気かつ退廃ムードに怒りと鬱屈を膨らませ、短い休暇を経て今度はシュペーアの命令で新設のSS経済管理本部でモルゲン判事と組み、労働収容所内での汚職摘発と生産力の向上に取り組む。当然その過程において絶滅収容所の様子やガス室を目撃する。だんだんソ連軍が迫ってくると絶滅収容所の解体と証拠隠滅作業が行われ、ベルリンが陥落するまで徹底抗戦を続ける「かつての支配人種」の末期の混沌を秀逸に描く、、、、

というわけで、主役級のキャラ以外はだいたい史実。史実だけでどんなフィクションも裸足で逃げ出すとんでもない様相なので、固い話ではあるけれども、この手の話としては珍しく加害者視点で描かれているので、すごい迫力、というか妖気を放つ作品である。主人公は同性愛者かつ姉に歪んだ欲望や愛情を持つ倒錯者。ナチ社会では真っ先に撲滅されるべき性的マイノリティーである。しかし、非暴力主義者で同性愛者らしい女性的な優しさときめ細やかさも併せ持っている。まあ、こんな複雑な人間がナチスドイツが作り上げたこれまた超複雑な大量殺戮官僚機構に組み込まれて悩み苦しむという大筋だ。

まあ、よくできた話なんだけど、これもやっぱりフィクションなのだ。限りなく史実をベースにしているし、この手の作品の中では確実に正確な内容だが、これが歴史書とは呼ばれないのは、やはりフィクションだからである。フィクションがあるからこそ小説は歴史書や自伝や日記などとは区別されるわけである。もちろん、異世界ファンタジーなどのように、徹頭徹尾フィクションで固められているわけではないが、純文学もやはりフィクションの作品なのだ。フィクションを多くダイナミックに取り入れるほど娯楽的な作風となるし、フィクションが少なくなるべく本当っぽさを装う作品ほど文学作品と呼ばれやすくなる、というのが前回の大筋。

フィクションを取り込むメリットは、ストーリーやキャラクターに自由度が生まれることだ。
フィクションを取り込むデメリットは、いちいち設定を考えなきゃならないことと、やりすぎるとガキっぽくなってしまうことだ。
そして最大のデメリットは、架空の設定を読者にわかってもらうために説明文を多く必要とするということだ。会話の中でそれとなく少しずつわからせる方法もあるが、ガンダムのように「宇宙世紀0079、、一月三日、スペースコロニーなんとかかんとかはジオン公国を名乗り地球連邦政府に宣戦を布告、、、」とかなんとか、ダラダラと説明しなきゃならないことも多い。これはマジでクソつまらない。ダラダラした説明はなるべく省きたいというのが作家たちの本音のはずだが、説明しなすぎると読者はチンプンカンプンでついていけないわけなんで、やっぱりちょっとはどうしても必要だ。「慈しみの女神たち」がどうしているかというと、歴史の説明はほとんどなしである。その代わり、巻末にめちゃくちゃな量の注釈が添えてあって、それで時代を説明しているのだ。基本史実ベースなんで、それで事足りるのである。こういうやり方をする作品は多い。一方フィクションの説明を注釈に添えるというのは普通ありえないし、そんなの見たことない。

「弥勒」という作品を前にお客さんに勧められて読んだのだが、インドやネパールの間付近にあるという設定の西アジアの架空の国で共産革命が起きるというストーリーなんだけど、その架空の国の説明があまりにもクソ長すぎて読んでてうんざりしたのを覚えている。それでもこの小説はよくできた話で、史実に通じる人間の業を描いた作品なんで割と評価は高いのだと思うが、おれとしてはあまりにも説明が長すぎて、もっと短い作品にできたんじゃないかなあ、、とほんと首を傾げたのを覚えている。「弥勒」は中国やインドなど実在の世界と地続きなんだけど、なんとか、という国だけが(なんてこった、思い出せない)架空の国という設定で、そこで起きる革命の現実は明らかに初期ロシア革命やカンボジアのクメールルージュの蛮行をモデルにしている。指導者的な革命家が出てくるのだが、西アジア人のはずなのにゲルツェンという名前。ロシア革命をちょっと知っている人ならこのドイツ風の名前にどんな意味があるかすぐにわかるはずだ。

舞台は半分架空。登場人物は全部架空。イベントもやっぱり架空だけど史実をモデルにしている。というわけでこの小説は娯楽色が強いけどちょっと硬い内容。娯楽作品なんだけど説明が長すぎてスピード感がない。というわけで難しい作品だ。作者も多分葛藤しながら書いたはずだ。

まとめが思い浮かばないが、史実ベースの話にフィクションを取り込む難しさについての子話です。今日でこの話は終わりです。

この長い駄文を書いているうちに、おれもだんだん曖昧だった考えや認識がまとまっていくのを感じた。やはりおれはノートを作って理解するタイプらしい。おれの個人研究に付き合ってくれた人には感謝の言葉もないですが、ついでなんでなんか意見でも残していってください。↓↓

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