「ブラッドメリディアン」と無法地帯

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85年に発表されたコーマック・マッカーシーの比較的初期の小説だが、20世紀後半の最も優れたアメリカ文学の一つと評される作品である。

これはすさまじい。
舞台はテキサス州の帰属をめぐってアメリカとメキシコが戦争をした1845年前後のアメリカ南西部。主にテキサスとメキシコだ。正に無法地帯の荒野である。

ここで主人公の「少年」(劇中14~16歳ぐらいと思われる)は、インディアンの無法からメキシコ市民を守るという名目で結成された騎兵隊に加わる。しかしグラントン大尉率いる頭皮狩り隊と呼称されるその愚連隊は、メキシコ領内に侵入してインディアンの野営地や集落を手当たり次第に襲撃し、子供も女も老人も区別なく皆殺しにし、頭の皮をジョリジョリとイングロのアルド・レイン中尉みたくブロードナイフでひんむいてかき集め、一枚100ドルでその辺の自治体に売りさばいていたという問答無用の地獄から来た戦闘集団であった。(実在の「グラントン団」をモデルにしているという)

頭皮狩り隊は流れ者や犯罪者、黒んぼ、デラウェア族インディアン、メキシコ人、アメリカ人といった多民族混成部隊であり、蹂躙するという本能でもって等しく掠奪、虐殺、レ×プ、殺戮と無法の限りを尽くす。インディアンだけかと言えば全然そんなことはなく、守るべきはずのメキシコ人の村々も彼らの毒牙の標的となり血祭りに上げられ頭皮を剥がれてゆくのだった。

逃げる女の頭を棍棒で叩き割りナイフで刺し殺し戦馬で踏み殺し命乞いするものの首を刎ね赤子の頭を岩に叩きつけ脳みそをばら撒き死体全ての頭皮を剥いで吊るして持って帰る。死体はそのまま放置されブタに食われる。

そんな見境のない殺戮行為にメキシコ軍もついに動き、頭皮狩り隊はおたずね者となる。だが悪びれることもなく逃げる先々で酒・女・暴力の3点セットでもって暴れまわる頭皮狩り隊であった。

どういった末路がこの愚連隊に待っているのかは、もはやネタバレするまでもないことであろうから、何も言わないが、とにかくアメリカ南部・メキシコの粗野で野蛮で血生臭い、ヒトがヒトたる所以であるありのままの残虐性をむんむん発散させながら物語は進んでいく。

残虐なのは頭皮狩り隊だけではない。劇中「野蛮人」と呼称されるインディアンの戦闘部族も圧倒的残虐性でもって侵略者を血の海に沈める。皮を剥ぎハラワタを引きずり出し生きたまま焼き殺す。拉致した乳児を木の枝で串刺しにする。
どうにも救いがたいむき出しの飾り気皆無の憎悪の応酬・・見るに耐えぬ悪臭にまみれた無法地帯の荒野のありのままの営み。生存原理。

頭皮狩り隊はメキシコの荒野・砂漠・山岳地帯の過酷な自然の中を常に動き一定の土地に定住しないインディアンの様々な部族を捜索しつつ、メキシコ軍の追跡を振り切らねばならない。ここで後年見られる「ザ・ロード」のようなロードノベルとしての本領を発揮しており、自然の描写は異常なぐらい細かく重層的で、小説の7割がたは自然の描写で構成されている。

牛や犬や狼、猛禽類など色々な動物が自然に潜む脅威、或いは救い(食糧にもなるわけなので)として細かく描かれている。そのいつものマッカーシー節は、一文が長くコンマがほとんどなくあっちいったかと思えばこっちに描写が向かうといった様相で極めて極めて読みにくい(今日のこの記事もそれを真似ているのだ)。しかし一種の麻薬にも似た酩酊感を覚え、世界観に没頭させる魔力を秘めている。本当に19世紀中ごろのアメリカ南部で虐殺ツアーに参加しているかのような、不思議な没入感を覚えるのである・・。これは読んでもらえればきっとわかっていただけるだろう。

小説のテーマは難解で、確たることは言えぬが、人間も自然の一部として殺し合い奪い合い女を犯し弱いものを虐げ欲にまみれて騙しあい滅ぼしあうものである。それは好きとか嫌いとかではなく事実そうである。自然のままの人間の所作・・それは醜さも美しさもあらゆる感情表現が入り込む余地もなく、ただ圧倒的に「そう」であるとしか言えぬ。野蛮で血生臭く戦いが好きでほっとけば互いが互いを完膚なきまでに撃滅し続けしまいには暴力の実行者、ひたすら恐怖を撒き散らした圧倒的な戦闘力を持つ某かが大笑いして君臨する。それは良くも悪くもなく、事実であり現実であるという・・・そういったメッセージというほどあてつけがましいものではないのだが・・感じられる。(正にアメリカの歴史そのもの)

渇いた殺戮場面、淡々とありのままに執行される暴力風景・・・一切感情を表に出さぬ、内面が描かれぬ登場人物たち・・・過酷な自然と並行して描かれる殺戮情景・・犬が飯食ったってのと通りすがりの村を虐殺したってのがほぼ同じ重みで描かれる砂漠の砂のごとき一切の執着や希望や感傷を排した文章表現・・

そして頭皮狩り隊の中で参謀のようなたち位置にいるホールデン判事と呼ばれる人物の存在がこれらを決定付ける。

5ヶ国語を操るマルチリンガルで、絵もうまくダンスや楽器、射撃も神業、知己に富み、様々な哲学的思想を背景に潤沢な知識で隊員に語りかけるカリスマ・・しかし殺しも超一級で残虐性・暴力性・容赦のなさも戦争の神と見紛うばかりの超人かつ戦争狂の男・・

年齢不詳身長200センチ以上、体には一切の体毛がなく巨大な乳児のごとき異様な風貌・・

この通称「判事」がノーカントリーのアントン・シガーの原型なのかもしれないが、正直シガーよりとんでもない存在感を放つ悪のエリートである。この判事はこの小説の中で唯一自分の考えや思想などを流暢に軽やかに語り、割と直接的に↑で書いているようなテーマ性あるセリフをくっちゃべってくれる。「人間は戦争が好きなのだ。戦争がなくならないのは若者も年寄りもみんなそれが好きだからだ。戦った者も戦わなかった者も。人間は遊戯をするために生まれてきたんだ。」
遊戯は何かを賭けて勝負すること、そしてその究極の形態こそが戦争であると。

「戦争が栄光を失いその高貴さが疑われるようになり血の神聖さを知る名誉ある者たちが戦士の権利であるダンスから排除されるようになればダンスは偽物になり踊り手は偽の踊り手ばかりになる。血みどろの戦争に自らのすべてを捧げた者、闘技場に立って恐怖を体験しその体験が自分の心の最も深いところに語りかけてくると知った者だけが、踊ることができるんだ。」

判事の思想はニヒリズムの影響が強いようである。また地獄の黙示録のモデルとなったコンラッドの「闇の奥」に登場するクルツ(カーツ大佐のモデルとなったキャラクター)が判事と多くの共通点を指摘されている。
「倫理というのは強者から権利を奪い弱者を助けるために人類がでっち上げたものだ」
完全にニーチェである。

一筋縄ではいかない悪のカリスマ、「判事」と出会うだけでも一読の価値のある小説だ。
これも映画化の動きがあるらしい。是非とも映画化して欲しいと願っている。

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