第三帝国極悪伝説29
フェルディナント・シェルナー

シェアする

フェルディナント・シェルナー

Ferdinand Schörner

image

”ヒトラーの最も冷酷な元帥”

所属:陸軍、第四〇軍団、中央軍集団など
出身:ドイツ、バイエルン
階級:陸軍元帥
罪状:敵前逃亡と非合法な部下の処刑

第二次大戦中に5階級昇進し、大佐から元帥にまでのぼりつめた男である。バイエルン出身の野心家で、熱烈なナチであった。

総統アドルフ・ヒトラーに絶対的かつ無条件の忠誠を見せ、信頼のおける司令官と気に入られていた。

ヴァルター・モーデル元帥同様、末期のソ連赤軍の侵攻を幾度となく食い止めた防衛戦の名手であったが、配下の将兵に平然と厳格すぎる規律と情け容赦ない犠牲を強いた司令官でもあった。

そんな彼についた仇名は「ヒトラーの最も冷酷な元帥」。

“恐怖こそ力”をモットーとし、部下の兵士たちがソ連赤軍より自分の粛清を恐れていることを自慢の種にしていた。大柄の風貌で、必要以上に威圧的かつ高圧的な態度で部下に接したシェルナーは、配下の将兵からは怪物のように畏怖されていたという。

1892年に出生。第一次世界大戦では陸軍に入隊し、戦功をあげて勲章を受ける。ちなみにロンメルとは同じ部隊の戦友であった。

敗戦後、右派のフライコーアに所属し、左派の弾圧に働いた。

1931年には陸軍歩兵学校で指導教官を務めた。

1937年からは第九八山岳連隊の連隊長に就任、39年から始まった大戦で戦功をつんでゆく。

シェルナーの戦場は多岐にわたり、ポーランド、フランス、ノルウェー、ギリシャ、東部戦線にまで及んだ。優れた用兵でたびたび戦線を安定化することに成功した。

1943年末には第四○装甲軍団長に就任。ドニエプル川下流のニコポリ付近で突出陣地を形成し、翌2月までその陣地を保持した。

この時期東部戦線で最東部となっていたニコポリに対し、ソ連軍は2個方面軍で猛攻を加えたが、シェルナーの巧みな防衛戦を前に攻勢は失敗。しかし2月2日、もう保持は限界だと悟ったシェルナーは陣地の放棄と撤退を決意。シェルナーの指揮によって16個師団が脱出に成功した。これは奇跡の脱出劇といって良いほどのものだった。

1944年3月末には南ウクライナ軍集団司令官を務め、7月までウクライナ南部の後退作戦を指揮。

6月に実施されたソ連の大攻勢「パグラチオン作戦」によりかつては最強をうたわれた中央軍集団が壊滅。その北に隣接していた北方軍集団がバルト海沿岸に閉じ込められると、7月23日付でシェルナーが呼び出され北方軍集団司令に就任。ここでも戦線の崩壊を避けつつ、適切な防御陣地の形成と作戦指導によりソ連軍の勢いを削ぎ、戦線を安定させることに尽力。

1945年1月には中央軍集団(元A軍集団が改称)に就任し、ベルリン南東部〜プラハ周辺を防衛。シェルナーの軍集団はベルリン陥落後も健在で、最後まで頑強に抵抗し連合軍を悩ませた。

さて、猛将としての一面がある一方、シェルナーは部下に異常に厳しかった。脱走兵や臆病者には一切容赦なしに絞首刑にした。市民の疎開にさえ難色を示したほどだった。

特にシュレージエン(ポーランド南西部からチェコ北東部の地域)の首都ブレスラウ攻囲戦はシェルナーの鉄の規律が影響した戦いである。シェルナーの”恐怖こそ力”の方針に支えられ、ガウライター(大管区指導者)、ハンケは徹底抗戦を決意。シェルナーは第二五降下連隊の一部を増派として派遣することを決定し、守備を固めようとしたが、ソ連軍の対空放火があまりに激しかったため、結局増派は失敗している。

ハンケの規律引き締め措置は恐ろしいもので、10歳の少年ですら市内の仮設滑走路の整備に駆り出されたという。臆病者には例外なく熾烈な措置が待っていた。

戦いは2月14日から5月6日まで、実に83日間に渡って行われた。恐怖に支えられた軍と市民軍はベルリン陥落後まで赤軍との自殺的な戦闘を続けたのである。

ナチ指導部は、ソ連軍がドイツ帝国領内に深く侵入するにつれ、市民や兵士の士気が上がると期待していたが、実情は真逆だった。市民も兵士も闘志を失っており、早く戦争が終わることを願っていた。

3月1日、シェルナーはラウバンの町を奪還するため攻勢を開始、ソビエト第三親衛戦車軍は不意をつかれ町は奪還された。ゲッベルスはこれに狂喜し、宣伝省のカメラチームを引き連れてシェルナーと共にラウバンに入り、祝賀演説を行った。

更にシェルナーはブレスラウ西方40キロのシュトリーガウを奪還。シュトリーガウの市民はコーネフ軍とシェルナー軍双方からの略奪を受け、ひどい目にあった。

戦闘は過酷を極め、独ソ両軍は競い合うように配下の兵士に非情な規律を課した。シェルナーは仮病を使うものや、臆病風に吹かれた兵士に対しては、即決裁判さえ行わず道ばたで絞首刑にした。ソ連の捕虜になったドイツ兵の証言によれば、3月末、ナイセの町で22回も処刑が行われたという。死刑判決は兵士の前で読み上げられた。公開処刑に近いものだった。

ソ連側でもスメルシュ(特務部)という名の恐怖の天使が前線部隊の背後に張り付いて、臆病者をやたらとあげつらっては粛清していた。最悪の戦場である。こんなところに行っても生きて帰れる気がしない。”恐怖こそ力”は、独ソ双方がお互いを模倣しながら終戦まで持ち続けたモットーだったのである。

この頃になると、ドイツ領はかなりソ連軍に侵食されていたが、ナチ指導部はなんら有効な対策を打てず、臆病者を処刑することだけに躍起になった。ヤケクソな人事で一時的とはいえ≪ライヒスフューラー≫がヴァイクセル軍集団の司令官となってしまったわけだが、ヒムラーは総統官邸で「軍法会議」だの「即決裁判」だの、そんな単語を呪文のごとく繰り返した。「無能で臆病な将官ども」を迅速に処刑する手続きの簡略化だけは異常に手際よく進んだ。

ヒトラー自ら「退却阻止隊」の創設が命ぜられ、スターリンの国防人民委員命令第二二七号をそっくり真似た命令が出された。すなわち、”一歩たりとて後退するな。後退するものは処刑する”である。

更に一歩進んで3月9日になると、総統命令により、「移動即決軍法会議(Fliegende Standgericht)」が創設された。高級将校3、書記2、タイプライターその他の事務用品、そして実行部隊として下士官1、兵8の処刑班である(編成は諸説あり)。情状酌量は適用されず、裏切り者と臆病者とそれが疑われるものは例外なく処刑される。陸軍だろうが武装SSだろうがおかまいなしである。やがて海軍や空軍にも拡大され、ボルマンによって市民にまで監視の目が向くこととなった。

「移動即決軍法会議」は総統命令広布の翌日から仕事をはじめ、猛威をふるった。

ソ連側の報告によれば、1945年に味方に処刑されたドイツ軍兵士は25000人に上るという。この数字が誇張されたものであることは疑いないが、10000人以上は処刑されているとみられる。

1945

19452

鉄の規律をしいたシェルナーだったが、ドイツ敗戦後は私服に変装してオーストリアへ逃亡。まぎれもなく敵前逃亡だった。その後米軍に逮捕され55年まで服役。西ドイツに帰国後は西ドイツ政府により敵前逃亡と部下の処刑により63年まで懲役刑を受けた。

あまりの冷酷さと末期の醜態により、評価の二分される人物である。しかし、シェルナーが大戦全期間を通して部下をよくまとめ戦い続けた猛将だったことは確かである。ニコポリの激戦において16個師団を救ったことは高く評価されているし、またその際には重火器は放棄しても負傷兵を見捨てず、1500人以上の負傷兵が困難な状況にも関わらず共に撤退した。ある少佐はニコポリ戦の終幕を個人的な日記にこう要約している。

“包囲網は破られた。シェルナーはわれわれに別れを告げた。彼とその参謀たちがいなかったら、今頃われわれはシベリアへ向かっていただろう。ニコポリで戦った者はシェルナーを忘れることはあるまい”

↑↑
なにか一言メッセージでも残して行ってください