「アシュラ」と無法地帯

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asyura

途方もない飢餓・・かつて日本は天災の影響でたびたび深刻な飢餓に襲われた。その度民は飢えて膨大な数死んだが、権力者は民から食糧をぶんどり生きながらえる。古くから変わらない世界の仕組みの一つだ。

※昔書いた書評の復旧


この日本のとんでもない飢餓を迫真の物語にしたて、少年誌に載せちまった男がいる。
ジョージ・秋山だ。「アシュラ」である。

当時はマルクス主義が知的階級でブームであったから、こういうとんでもない貧困相と超大金持ちを比較して世相を憂うという話は人気があった。しかしこれはその中でもひときわ陰惨にして残虐、手加減無用で生々しく、もはや普通誰もがやる「遠慮」というものがない。

舞台は平安時代くらいと思われる日本。異常なほどの日照りが続き、食べ物は朽ち果て水は枯れ果て、貧しい人間は全滅。その死肉を鴉と山犬が貪り食う大変素敵な時代である。しかも鴉や山犬だけならよかったが、結局のところ、人間は食い物がなくなったら人間を喰らうものだという諦めというか達観というか、そういうモラルのタブーというか、人間に対する希望というか期待というか、願望すら塵一つ持っていない作者が描いているので、一切手加減のないハードコアな世界を描写することに成功している。

「善人は極楽に、悪人は地獄へ行くと言う。そんなものは迷信だ。生きているうちが地獄だ。」

そんな中、人間を躊躇なく食い殺しながら生きながらえる狂女に産み落とされ、飢えた挙句母親に焼いて食われそうになった赤子が主人公である。

福祉のふの字すらない時代。全身大火傷で泣きわめいているのに、助けてくれるどころか、「うるさいなあ」とか言われてほったらかし。ほったらかしならまだいいが(?)、リンチされて死にかける。しかしそれでもこの名前もない、自分が人間だということすら誰にも教えてもらえぬこの子供は生きて成長していく。躊躇なく人肉を喰らい、人間を見れば食料だと思って襲い掛かる。そんな修羅のごとく育つのだ。

この物語はしょっちゅう「生まれてこないほうがよかったのに」というモノローグが入るのだが、これは仏教の「生きることはひたすらツライ」という思想が物語の土台にあるからだと思う。これを少年誌でやってまう当時のパンクアチチュードにひたすら感動することしきり。
ただ殺伐としているだけかと言うとそんなことはなく、目をかけてくれる法師や言葉を教えて母のような優しさを与えてくれた少女などとの出会いから少しずつ少しずつ人間性を身につけていくという成長譚の側面も持っている。まあそれも実にひねくれていて一見の価値ありだ。

この時代の日本で、幼児を虐待したり搾取する極悪な大人を捕まえたり、飢えた人々に食糧を与えてくれたりする救いの手は存在していない。特権階級があるのみで、彼らは貧乏人からさらに搾取してその結果民が飢えて死のうが知らん顔だ。民は使い捨てなのである。特権階級は劇中少ししか姿を現さないが、彼らの悪政がこの悪夢の物語を築き上げているのは疑いない。こういう視点はピエル・パオロ・パゾリーニの「ソドムの市」に酷似している。

劇中、特権階級は甘い汁を吸うのみで、政(まつりごと)をやる気は全然ない。そのことは自らの子を焼いて食うまでに追い詰められた狂女を誰も救わず「ほったらかし」にしていることから明らかである。

この時代の残酷さはこの「ほったらかし」に尽きる。

アシュラ(=少年)は、自分を喰おうとした母親に対する憎悪を抑えることができない。
「人間など一皮むけばケダモノだ。食い物がなくなれば醜く争い、自分の子まで喰おうとする。そのような人間の本性はあわれである。あわれであわれであわれで痛々しい憎むのではなくあわれに思うことだ。人間は一皮むけばケダモノだがケダモノになりきることはできない。それは心があるからだ。ケダモノの道を歩めば心は今よりいっそう苦しくなる。だから両親を許してやれ、人間らしく生きろ。それしか道はない。」
こう説く法師の言葉は何故か妙に感動する。説得力のある綺麗言である。
しかし同時に「おれが生きていくのに人間らしさが何の役に立つんだギャ」と返すアシュラの言葉も、なにかしらの真理をついている気がして感動してしまう。このようなギラギラとした刃物のようにまっすぐな生命力にも感動を覚えてしまうのだ。「無法地帯作品」の魅力は正にこのギラギラしたブツにある。

飢餓ほど人間の仮面を無残に剥ぎ取ってしまうものはない。弱いものに力を貸してあげようなんて聖人は急激に数を減らす。法師は劇中わざとらしいほどの救いであり、希望だが、現実には法師のような人がいたかはかなり疑わしく思える。

仮面を剥ぎ取られた素のままの人間の醜さ、どうしようもなさをガツンと胃に叩き込んでくれる傑作である。

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