ベルリンの戦い 前編

シェアする

Battle_of_Berlin_1945-a

出典:http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Berlin

<狼煙>

ジューコフの第一ベロルシア方面軍とコーネフの第一ウクライナ方面軍の、ベルリンへの最後の総攻撃開始は4月16日を予定されていた。

北方のロコソフスキーの第二ベロルシア方面軍はその後を追随する。ソビエト赤軍の兵力は250万。それを支援する火砲と重迫撃砲41600門、戦車と自走砲6250両、四個航空軍作戦機7500。史上最大の火力の集中であった。

スターリンはライヒスターク(国会議事堂)を占拠した者に最高の栄誉を与えることを約束した。それは「ファシスト野獣どもの巣窟」の完全制圧の象徴となるのである。

赤軍司令部は突破作戦の成功を信じていたが、米英軍に先を越されることを心配していた。長年の死闘の決着をつけるのである。多くの者たちが血の海の中で死んでいった。ベルリンを手に入れる権利があるのはまぎれもなくソ連であった。

ベルリン攻略作戦は、まず市を包囲して米英軍を寄せ付けないという構想の上に立てられた。スターリンとNKVD長官ベリヤは、ドイツの核研究施設、とりわけカイザー・ヴィルヘルム研究所を無傷で占拠することを重視していたという。

4月16日モスクワ標準時で午前五時、ベルリン標準時では午前三時。
ジューコフは時計をみた。

be2

最初の砲声が轟いた時、塹壕の中で目覚めたドイツ軍新規補充兵の一部は、いつもの「朝のコンサート」だろうと思ったが、東部戦線で実戦を積んだ古兵たちは兵士の勘でこれを大攻勢だと悟った。

「非常呼集!即刻配置につけ!」

この時の心が凍りつき、口の中がカラカラになる感じを忘れられない、と生存者は言う。「いよいよ年貢の納め時か、、、」と、誰しもが心の中でつぶやいていた。

その恐ろしい砲撃は「地獄」「インフェルノ」「大震災」、いろいろな言葉で例えられた。完全に聴覚を失ったものも多くいたという。

第一ベロルシア方面軍が保有する700万発の砲弾のうち、123万6千発が最初の一日に叩きつけられた。恐ろしい雷鳴があらゆるものを震動させた。

4月17日、ベルリン官庁街で はヒムラーが軍指揮官全員に対し、徹底抗戦を呼びかけ、「国家に対するこの自明の義務に違反するドイツ人は全て名誉も命も失うだろう」と述べた。ドイツ砲兵が弾薬を使い尽くし、戦車は燃料不足で放棄され、兵士の食料まで欠乏していた事実はあっさり無視されていた。

・・・・・・

<死闘>

戦いは凄惨を極めた。

ジューコフの第一ベロルシア方面軍による攻撃開始は既に読まれていた。ベルリンを守備していた≪ヴァイクセル軍集団≫司令部(ハインリツィ上級大将)は第一線部隊を後方に下がらせ、砲撃による損失を最小限に抑えることに成功していた。

第三装甲軍と第九軍を主力とした≪ヴァイクセル軍集団≫は、88ミリ高射砲や自殺的なパンツァーファウストによる攻撃で執拗に応戦し、多数のソ連戦車が撃破された。手柄に焦るジューコフは無数にはりめぐらされた塹壕と、対戦車地雷に囲まれた砲座、温存されたドイツ軍に対して、自殺的な突撃戦術を繰り返した。臆病な兵士はこれまで同様に銃殺すると脅した。ジューコフの攻勢は一時完全に頓挫し、スターリンはこれに憤慨した。

be3

ジューコフの戦略的な失敗は、第一ウクライナ方面軍のコーネフ元帥に僥倖をもたらした。ドイツ軍の注意はゼーロウ高地での戦いに向いており、21日、大した抵抗も受けずに、ベルリン南方のドイツ軍の陸軍総司令部(OKH)があるツォッセンを占領できたのである。

かくして激しい抵抗を続けていた第九軍も包囲されることになった。更に第二ベロルシア方面軍が第三装甲軍を撃破し、ベルリンは一挙に包囲下に陥った。
・・・・・・

<絶望>

1945年4月21日。ベルリンに対する集中砲撃が始まったのは午前9時30分。
ヒトラーの副官の供述によれば、数分後に目を覚ましたヒトラーはヒゲもそらずに腹立たしげに地下壕の廊下に飛び出してきた。「なにごとだ?」「どこで撃ってるのか?」「ロシア軍がそんな近くまで来ているのか?!」
ヒトラーは明らかに動転した様子で叫んだ。

この砲撃で、食べ物や水を求めて行列を作っていた女性たちの間に、特に多くの死傷者が出た。
カールシュタット百貨店の外の行列が直撃され、バラバラになった死体が何体も広場を越えて吹き飛ばされた。

be4

給水ポンプの行列からも多くの死者が出た。
情け容赦のない砲撃で、どこに砲弾が落ちてくるかわからないので、道路を横切るにも全力疾走せねばならなくなった。住民の大多数は地下室にこもらざるをえなかった。

あらゆる場所で、民間人の手押し車や乳母車、農業用荷馬車などが溢れていた。民間人は兵士たちを取り囲んで敵がどの辺まで前進したかしきりに問いただしたが、兵士たちは何も知らなかった。

各十字路で野戦憲兵が見張りに立ち、敗残兵をかき集めて混成中隊を編成した。「私は卑怯者でした」と書いた札を胸にぶら下げて、路傍の樹木に吊るし首にされている人がそこかしこで見られた。

be5

兵士たちは食料をかき集めた。
もうすぐロシア軍が姿を現すだろうと全員が知っていた。

ソ連軍は南北よりベルリン市内へ侵入し、市街戦が始まった。市内の守備部隊は軍学校生徒で3月に編成されたばかりのミュンヘベルク装甲師団と、北欧系外人部隊が主力のSSノルトラント師団、第二〇、第十八装甲擲弾兵師団の残党、”シチュー鍋”と揶揄された子供や高齢者で構成された国民突撃隊である。

be7

150万もの兵力を市街戦に動員したソ連軍は、数的優勢からかえって大きな犠牲を払った。ゲリラ戦術で応戦するドイツ軍に対し、しらみつぶしの掃討戦が繰り返された。市民はこの犯罪的な戦闘に例外なく巻き込まれたのである。

ベルリンは破滅の瀬戸際にあった。
何日も食料の配給がなく、水道管の多くも壊れていた。
「子供たちが右や左で死んでいた。老人は動物のように草を食べていた。」

ふと気づくと、都市からツバメの姿が消えていた。
更なる攻撃が迫っていた。

爆撃が始まり、砲弾で地が揺れ、爆音が耳をつんざいた。
砲煙の中から兵隊がやってきた。
家から家へ、そして部屋から部屋へと移動しながら、出入り口や階段に手榴弾を投げ込んでゆく。問答無用だった。退避勧告さえなかった。なにをするにしても火を放ってからだった。

be8

赤軍兵士は大酒のみで野卑だった。全身傷と包帯だらけだった。彼らは理不尽で貪欲だった。赤軍は奪えるものは、食べ物でも品物でも何でも奪っていった。女性は残忍な復讐の餌食となった。

<抵抗>

ノルトラント師団はチュイコフの第八親衛軍に対する応戦を準備していたが、カチューシャロケットの集中砲撃を受けて大損害を受けた。ソ連軍が弾頭に爆発性のナパームを充填したという報告もある。

ベルリン前方を守備していた第五六装甲軍団のヴァイトリング中将が無断で後方に司令部を移したとの流言が広まった。
はじめは裏切りと臆病の罪でヴァイトリングを処刑しようとしたヒトラーだったが、ヴァイトリングの堂々とした態度をみて、むしろベルリンを任せるのにふさわしい人材なのではないかと考え、ベルリン防衛司令官に任命した。

be9

ヒトラーは作戦地図を見て、フェリックス・シュタイナーSS大将の指揮する第三SSゲルマニッシェ軍団に、突出したソ連軍への反撃を命じた。しかしシュタイナー軍団は既に第九軍の支援へと戦力のほとんどを抽出されていたのだが、総統はそれを認めず、命令を実行せぬ将兵は処刑すると脅した。

シュタイナーに反撃を命じた後ヒトラーはほとんど廃人だった。
20年は老けて見えたという。

4月22日、シュタイナーが命令を無視したことがわかると、ヒトラーは金切声で怒鳴り始めた。「軍と同様SSも裏切りものだ!」この怒りはこれまで見せた怒りよりもさらに凄まじいものだったが、最後には力尽きて、涙を流しながら安楽いすに崩れ落ちた。そして、「この戦争は負けだ」と初めて公然と語った。居並ぶ重臣たちは顔を見合わせた。

ヒトラーはさらに続けて、自分はあまりにも弱って、闘いながら死ぬことができないので、敵に捕らえられるぐらいなら、拳銃で自殺すると宣言したが、その後落ち着きを取り戻し、エルベで米軍と対峙しているヴェンク中将の第十二軍を思い出し、ベルリン救援を命じた。

<希望>

4月23日、主要交差点に設置された対戦車壕の傍では野戦憲兵が身分証明書をチェックし、脱走兵を片っ端から逮捕、処刑する体制を整えていた。脱走兵はいたるところで縛り首にされ、吊るされていた。少年たちが死体をぐるぐる回転させては、逆回転して元に戻るのを面白がっていた。

警備兵の中には、だぶだぶの大きすぎる軍服とヘルメットをかぶったあどけない子供たちが多数いて、この無意味な戦闘へと駆り出されていた。

be10

国防軍総司令部(OKW)長官、カイテル元帥が第十二軍司令部におもむき、ヴェンク中将と参謀長ライヒヘルム大佐の出迎えを受けた。

元帥と中将は何から何まで正反対の人物だった。
尊大で虚栄心が強く、愚鈍、残虐で、総統に媚びへつらうイエスマンのカイテル。
白髪混じりだが若々しく見え、ずば抜けた知性の持ち主で、同僚からも兵士たちからも好かれているヴェンク。

be11

カイテルはのっけからヴェンクに向かってベルリンの総統を救うため、第十二軍がぜひとも必要だと説教し始めた。元帥杖を振り回しての大熱弁だった。「しゃべらせた上で、お引き取り願った」と後にライヒヘルムは語った。

ヴェンクは既に別の構想を固めていた。

一旦命令通りベルリンに向かって進撃はするが、それはヒトラーを救うためではない。エルベからベルリンまでの通路をこじ開け、兵士や市民が無意味な戦闘と赤軍との両方から逃れるための、避難路を作ろうというのである。それは救出作戦とでも言うべき構想だった。

軍主力をベルリン南方目指して東進させ、ブッセ第九軍と合流し、脱出を支援するというのがヴェンクの計画だった。第九軍には戦闘から逃れようと、多数の民間人が庇護を求めて同行していた。

「我々は第九軍と無線連絡を維持し、その所在を知っていた」

その日の夕刻ヴェンクは若い兵士たちに訓示するために、キューベルヴァーゲン(ジープ)で出向いた。

”諸氏にもう一度ご苦労願わねばならぬ” ヴェンクは第十二軍兵士たちに語りかけた。
もはや、ベルリンが問題になっているわけではなく、第三帝国が問題になっているわけでもない。戦闘とソビエト赤軍から、人々を救うことが諸氏の任務である

ヴェンクの統率力は兵士たちに強い感銘を与えた。
兵士の1人はこの時の心境を、「忠誠心、責任感と連帯意識」だったと記述している。

第十二軍の最後の戦いが始まろうとしていた。

↑↑
なにか一言メッセージでも残して行ってください