第三帝国極悪伝説外伝
ラトヴィア編
アラーイスコマンド

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ラトヴィア首都リーガを流れるダウガヴァ川左岸に住むエルマル・リヴォシュが晴れ渡った青空に見慣れぬ戦闘機を認めたのは、6月22日の早朝だった。飛行機音は、夜のうちから聞こえていたという。何事かと訝りながらも、リヴォシュは息子を幼稚園のサマーキャンプに行かせることにした。それがとんでもないことだとわかったのは正午のヴァチェスラフ・モロトフのラジオ放送で独ソ戦の始まりを知ったときだった。

6月22日、当時ソ連領だったラトヴィアでは総動員令が発令されたが、ラトヴィア人の多くは様子見を決め込み、総動員令は機能しなかった。独軍≪北方軍集団≫がダウガヴァ川左岸に到達したのは27日か28日のことである。ソ連軍は大した抵抗も見せずに撤退するので精いっぱいだった。散発的な抵抗が現地共産党青年団や民兵組織によって行われたが、長くは続かなかった。7月1日にはリーガは陥落し、現地民は花束を持って解放者たるドイツ国防軍を出迎えた。

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1941年7月1日リーガにて

即座にドイツ語で≪補助警察(Hilfpolizei)≫と名付けられたラトヴィア国旗の腕章をつけた警察部隊が創設された。現地ラトヴィア人によって構成された治安部隊である。他方ラジオでは旧ラトヴィア警察の警察官らにもとの部署にもどるよう呼びかけが行われた。ヴィクトルス・アラーイスがアインザッツグルッペ※Aの司令官ヴァルター・シュターレッカーに出会うのもラトヴィア警察本部である。アラーイスは1935年にリーガの警察学校に入学し、1939年に大学にもどるまで警察関係の仕事に就いた経歴を持つ。

※保安警察及び保安諜報部の特別出動集団。独ソ戦初期に暗躍したA~Dの移動抹殺大隊。ユダヤ人や反独分子を殺す。

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ヴィクトルス・アラーイス

アラーイスはシュターレッカーのお墨付きを得て、本格的に募兵を開始。極右的な新聞もアラーイス・コマンドへの市民の参加を呼びかけた。こうして総勢最大1200名にもなる大規模な警察組織が結成された。以後、ドイツのユダヤ人絶滅作戦に手足となって協力することになる。

ボリシェビキはリトアニアの時と同様、ラトヴィアの反ソ分子を急ピッチで粛清していた。独ソ戦が始まると軍を撤退させながら、刑務所に収監されていた政治犯を大量処刑した。それはそれは残酷な殺し方であった。このことはドイツ軍によって暴かれ大々的にプロパガンダへと利用されることとなった。リーガにおいても残酷なポグロムを誘発するためのおぜん立てが整いつつあった。

7月2日には早くもアインザッツグルッペとその配下にあるラトヴィア補助警察によって本格的なユダヤ人狩りが始まった。ユダヤ人は尋問されるのでも、労働させられるのでもなくまったく無意味に血まみれになるまで殴られ、髭をむしられ、髭でラトヴィア人の靴を磨くよう強要された。各地で連行されたユダヤ人は労働に適すものとそうでないものとにわけられ、そうでないものは夜陰に紛れてトラックで移送され、近隣の森で銃殺された。これを担当したのはルドルフ・バッツ指揮下のアインザッツコマンド2であるが、見張りや付近の封鎖にアラーイスコマンドも協力した。

7月4日にはリーガの全シナゴーグ※の放火と破壊が行われた。この放火と破壊にアラーイス・コマンドも関与した。犠牲者のうちわけは謎が多く、シュターレッカーは事報に400人を殺害と記している。

※ユダヤ教の宗教施設

ただ、ラトヴィアではウクライナやリトアニアのような狂熱は起こらなかった。これ以降、ラトヴィアの各都市は急速に落ち着きを取り戻したのである。その理由として、すでにラトヴィアの民族主義的指導者がソビエト政府によって滅亡させられていたこと、もともとラトヴィアでは反ドイツ気質はあっても、反ユダヤ気質は特筆するようなものはなかったから、と推測されている。

しかしそれでもリーガのユダヤ人は駆逐された。

1941年8月、リーガの南のはずれのマスカヴァス郊外区へのユダヤ人の移動と、そこにいた非ユダヤ人の街区への移動が進み、10月25日を期限として、ユダヤ人は鉄条網へ囲まれたゲットーに押し込められ外界と完全に隔離された。ゲットーのユダヤ人は約3万人に達した。街中からユダヤ人の姿が消えた。隔離されたユダヤ人たちがどうなったのか、グロテスクなうわさが流れたのは12月のことである。

11月30日と12月8日にこれら3万人のゲットーのユダヤ人たちは、労働力として2500人が残されただけで、あとは全員殺されてしまった。その数は27800人。この虐殺を指揮したのは≪親衛隊及び警察高級指導者(HSSPF)≫フリードリヒ・イェッケルンSS大将である。彼の命令のもと、アインザッツグルッペAとアラーイス・コマンドなどの地元の対独協力者が虐殺を実行したとされている。

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イェッケルン
数あるナチ戦犯の中でも大物中の大物といえる

イェッケルンの殺し方は独特で、「缶詰イワシ方式」や「イェッケルン方式」などと呼ばれる。

あらかじめ深く掘った穴の底に最初のユダヤ人を隙間なく列状に横たわらせ、彼らの射殺が終わるとその死体の上に今度は死人の足の側に頭を置くようにして次のグループのユダヤ人を横たわらせる。こうして射殺体が数層重なると穴は土で覆われた。多くの場合、射殺はユダヤ人を掘った穴の淵に並ばせ死体が穴のなかに転がり込むよう背後から撃つやり方で行われた。どちらのやり方でも、犠牲者の苦痛に差はなかったかもしれない。しかし、人間をモノ扱いし、墓穴の利用の効率性を追求する缶詰イワシ方式は、ただ残酷というのとは別種の薄気味悪さを感じさせる。

「1941年リーガのユダヤ人とラトヴィア人 ラトヴィア人のホロコースト協力をめぐって」
野村真理

より抜粋

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アラーイス・コマンド

これによってリーガのユダヤ人社会はほぼ消滅した。

ここまで急ピッチに虐殺が進んだ理由は極めて官僚的な理由であった。

当時、ドイツ本土のユダヤ人を東方へ移送し、そこで根絶やしにすることが計画されていた。このようにして数万人規模のドイツ・ユダヤ人が移送されたが、ラトヴィアはその中継地であった。彼らを受け入れるための設備が圧倒的に不足していたため、リーガのユダヤ人は殺すしかなかったのである。つまり、場所を空けるために。

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ラトヴィアのリエパジャにて
12月15日
殺す前の記念撮影か

ラトヴィアには特筆すべき反ユダヤ主義は存在していなかったが、それでもユダヤ人に対するラトヴィア人の視線は冷淡であった。ユダヤ人の受難はラトヴィア人にとって完全に他人事であった。またユダヤ人から略奪し、犯し、殺し、財産を奪うことに旨味を見出すものも多くいた。そして彼らの多くは自ら補助警察に参加することで前線行きを免れることができた。ユダヤ人を狩り集めたり、強制収容所で監視任務を行うことはソ連の戦車の矢面に立たされるよりは遥かにマシな選択肢であった。

警察官にならなかったその他のラトヴィア人たちは武装親衛隊の外人部隊に徴集された。彼らは二個師団を編成し、総勢は52000人を数えた。アラーイス・コマンドものちに武装親衛隊へと参加した。彼らはベルリンが陥落する最後の瞬間まで戦っていた。その後はソビエト政府によって粛清された。ソビエト政府崩壊後、近年彼らの名誉を回復し、反ソ運動の英雄として語り継ごうという動きがあるという。しかし映画「ショアー」にみるように、1942年にトレブリンカの絶滅収容所にいた親衛隊員フランツ・ズーホメルは、貨車に詰め込まれてトレブリンカに到着したユダヤ人を見張るウクライナ人とラトヴィア人を「血に飢えた猟犬」と呼び、最も残虐だったのはラトヴィア人だったと証言した。ユダヤ人を抹殺するのに必ずしも明確な「反ユダヤ主義」が必要なかったという事実は、当時のユダヤ人の恐怖と絶望を倍加させたといえる。彼らは単に無関心だった。無関心は人を殺せたのである。

1941年リーガのユダヤ人とラトヴィア人 ラトヴィア人のホロコースト協力をめぐって
野村真理

http://en.wikipedia.org/wiki/Rumbula_massacre

http://en.wikipedia.org/wiki/Arajs_Kommando

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