第三帝国極悪伝説28
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン②
スターリングラード大空襲とNKVD

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1942年8月23日の日曜日、スターリングラードという名の欧州最大の都市は地獄と化した。街路に取り付けられたラウドスピーカーが繰り返し報じる。「同志のみなさん、警戒警報が出ました。同志のみなさん、おしらせします。警戒警報が、、」

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市民は今まで何度もこうした間違いの警戒警報を聞かされていたので、最初は真面目に受け止めなかったが、高射砲が火を噴き始めると防空壕へ走り始めた。

いまやドイツ空軍で最も強力な部隊に成長した第四航空艦隊の総司令官に就任したリヒトホーフェン将軍は苛立っていた。ドイツ空軍の最優先行動が「対戦車攻撃」と聞かされていたからである。戦闘機パイロットにとって、地上攻撃は空戦技術も不要な上、危険なだけでくだらない仕事とされていた。

総統大本営からの命令は、第四航空艦隊のすべての兵力をスターリングラード方面軍に向けることだった。ソ連軍と決着をつけるためである。

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パウルス大将

この日、1200の作戦機がスターリングラード攻略を任されたパウルス大将率いるエリート部隊「第六軍」を支援するのである。

明日になればどうなるかわからない。兵士たちが空を見上げると何波ものJu88とHe111、さらにスツーカ急降下爆撃機の編隊が一団となって飛んでいくのが見えた。目標は「スターリンの都市スターリングラード、赤い革命発祥の地」である。戦車隊員たちは大喜びで喝采を上げた。
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リヒトホーフェンの爆撃隊は代わる代わる執拗に絨毯爆撃を繰り返した。目標は文字通り”全て”であった。高性能爆弾が静かに揺れながら束になって落ちてくる。防空壕の外にいて生き残った人など到底想像できなかった。市の外れにある木造住宅街には焼夷弾が雨霰のごとく降り注いだ。家々は焼け落ち灰となった。あらゆる建物が灰塵と帰した。母親は死んだ赤ちゃんを抱きかかえ、子供たちはそばで死んでいる母親を起こそうとした。大勢の人々が生きながら瓦礫に埋もれた。

ヴォルガ湖畔の巨大な石油貯蔵施設も爆撃された。炎は火の玉となって上空1500フィートにまで達し、黒煙が200マイル彼方からも見えた。燃え上がる石油がヴォルガ河の向こうまで広がった。爆撃によって電話交換所も給水所も破壊され、大きな病院も爆撃を受けた。窓ガラスは吹き飛び、子供たちはベッドから投げ出された。病院の職員は恐れおののいて患者をほったらかしにして我先にと逃げ出した。

ある母親は砲弾ショックで動けなくなった娘を引きずらなければならなかった。男は皆民兵として前線に駆り出され一人も残っていない。女だけでこの状況に対処しなければならなかった。

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東部戦線で最も集中的に行われたスターリングラード大空襲は、ゲルニカ以降のリヒトホーフェンの活躍が絶頂に達した証拠である。その日第四航空艦隊の出撃回数は1600回、投下した爆弾は1000トンに上る。損害はわずか3機。当時スターリングラードの人口は60万人で、最初の一昼夜の爆撃だけで死者は4万人を超えた。
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独ソ共に、当初よりこの宿命の都市が一年余りに及ぶ死闘の末の決着の場となると予想していた。にもかかわらずなぜここまで市民の疎開が遅れていたのだろうか?背後には広大なヴォルガ河が広がっている。市民は河の向こうまでなぜ逃げなかったのか?河は救いの道でもあり、逃げ道を塞ぐかんぬきでもあった。これはスターリンに忠実なNKVD(内務人民委員部)が市の船舶のすべてを徴収し、疎開を後回しにしていたからである。やがてスターリンは市民が疎開することを禁じてしまう。この都市で市民でさえも踏みとどまり、侵略者の猛攻を死守することが求められた。一歩たりとも後退するな!スターリンはこう命じた。

人間のことなんて心配するものはいなかった。市民は銃の標的になる肉の塊にすぎなかったのである。

独第六軍と第四装甲軍は空襲で大混乱を受けた”宿命の都市”に西と南から猛攻撃をかけた。その火力と機動力は圧倒的であった。第六軍司令部は戦勝気分だった。スターリングラード陥落は時間の問題だ。対するソビエトの防衛部隊は第六二軍と第六四軍約4万人を残すのみであった。彼らは市街から駆逐され、這々の体で街の中心部にこもっていた。まるでネズミのように。
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誰もが勝利を確信していた。しかし5名にまで数を減らしようやく降伏した敵中隊の捕虜を尋問し、敵の決意のほどを思い知らされることとなった。敵は大抵降伏することなく狂信的に戦ったのである。

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ヴォルガ河西岸の様子

リヒトホーフェンの大空襲は、欧州最大の都市を抹殺したかに見えたがそれは誤りであった。敵の戦意を削ぐことに失敗しただけではない。まさに彼らの破壊力こそが、スターリングラードを、ソ連軍がドイツ軍に牙を剥くための格好の殺戮場に変えてしまったのである。

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この戦いは”ネズミの戦争”と呼ばれた

ソ連兵はできあがった都市の残骸の中に身を隠したまま、超人的な耐久力で戦い続けた。瓦礫や地下壕の中で鬱々と繰り広げられる肉弾戦にドイツ兵の犠牲はかつてないほど膨らんだ。既に東部戦線全体でドイツ兵の死者は150万を超えていた。ドイツ兵の間には焦りと困惑が浸透していた。そして来たるべき冬への恐怖が。対してスターリングラードを防衛するソ連兵や市民たちにはこの戦いの意味がはっきりとわかっていた。名誉と誇りがあった。家族を殺された復讐心がソ連兵を駆り立てた。彼らは何も望まなかった。ドイツ兵を一人でも多く殺すことが彼らの戦争であり人生のすべてだったのだ。

加えて秘密警察のサラエフ大佐の第一〇NKVD狙撃師団が混乱の中でNKVD軍と民兵組織をまとめ上げ、15000人の私設部隊を作り上げ、勢力を拡大していた。彼らの任務は機関銃弾を逃げる自軍の兵隊に撃ち込むことだった。第六二軍司令官のチュイコフは彼らNKVD軍に麾下に入ることを要求した。普通ならNKVDが軍の指揮下に入ることはあり得ないことであったが、ここで彼らは利害が一致していたため、サラエフ大佐はチュイコフの命令に従うことが賢明と考えた。

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チュイコフ

「燃えさかるこの街では、我々は臆病者に我慢できなかった。そんな余裕はなかった。」

チュイコフは後にこう書いている。

スターリングラード防衛戦の立役者として知られる名将チュイコフは、現場の赤軍兵士に極めて厳格な規律を課した男でもあった。彼は”臆病”の兆候があるものは階級を問わず射殺させた。割れた火炎瓶の炎に包まれながら戦車に突撃する英雄がいる影で、当然ではあったが、命の危機に駆られた兵士の脱走や離反、自傷・自殺未遂が頻発していた。チュイコフとNKVD軍は彼らに一切の容赦はしなかった。正式・略式に味方に処刑された赤軍兵士・市民は13500を数えた。だが実際は即決裁判さえ開くいとまもなく処刑された兵士たちが他に無数にいた。

国防人民委員命令第二二七号により、一歩でも後退するもの、それを見過ごした同僚は容赦なく銃殺刑とされた。また、その家族も容赦ない報復を受けた。兵士たちの背後には広大なヴォルガ河と秘密警察の銃眼があるのみであった。こうした絶望的状況がかえって兵士たちに覚悟を決めさせたという指摘もある。こうした取り組みにより10月には脱走兵が激減し、ヴォルガ河東岸にも大規模な砲兵部隊が布陣し、ようやく支援の準備が整ってきた。

そして驚異的な忍耐力で建物の一画一画を奪い合う肉弾戦は新たな局面を迎えた。脱走兵の減少、徹底した狙撃戦、冬の到来の兆し、そして11月19日、赤軍による大規模な反攻「ウラヌス作戦」が大成功をおさめ、エリート部隊第六軍は完全に包囲されてしまったのである。
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絶望的な包囲戦は翌年の2月まで続いた。リヒトホーフェンの空軍部隊が包囲された第六軍に空輸を続けたが、全くの力不足で食料と弾薬の尽きた第六軍は遂に降伏。30万人いた将兵で生きて故国の土を踏んだのは6000人に過ぎなかった。ソ連兵も50万人の将兵がこの都市に集結したが、そのうち30万人が死亡したとみられる。
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リヒトホーフェンは空輸という困難な任務に全力を尽くしたとして元帥に列せられた。しかしじきに脳腫瘍により前線を離れる。戦後収容所で人知れず病死したという。

ドイツ軍はこの敗北により東部戦線を維持できるだけの兵力のすべてを失った。これにより第三帝国の崩壊は確実となったのである。上層部は、ことに≪総統≫はそれを認められなかった。翌44年にはドイツ東部戦線の前線は完全に崩壊し、ソ連軍のパグラチオン作戦が開始される。それはソ連流の電撃戦で、圧倒的な戦力により東プロイセンほかベルリンに至るまで完全に戦車のキャタピラーで蹂躙されてしまう。それは今まで無関係でいられた≪支配人種≫とその支配を許した国民に対するヴォリシェビキの恐ろしい復讐の始まりでもあった。

「私はこの目で、何千という女や子供の死体が、線路や公道沿いに散らばっているのを見た。
彼らは、ドイツのハゲタカどもに殺されたのだ。
女や子供の涙が、私の心の中で煮えくり返る。
殺人鬼ヒトラーとその一味には、この涙を、やつらの狼の血で償ってもらう。憎しみに燃えた復讐者は、容赦しない」

(映像の世紀より)

イワンの戦争 赤軍兵士の記録1939-45

スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-1943 (朝日文庫)

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