第三帝国極悪伝説外伝
クロアチア編
ウスタシャの怨念

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1941年4月6日、ユーゴの反独新政権を打倒するべく、ドイツ空軍が戦端を開いた。その後ドイツの電撃作戦が圧倒的な成功を収め、ユーゴ軍総司令部はわずか10日で降伏し、ユーゴスラヴィアは解体された。

ドイツ国防軍がクロアチア首都ザクレブに入城すると、即座に「クロアチア独立国」の建国が宣言された。この政権を率いたのは“ウスタシャ(蜂起する者の意)”というテロ組織で、指導者は弁護士のアンテ・パヴェリッチ博士である。ウスタシャは内務省内にナチス親衛隊にそっくりの治安機関を擁していた。それは同時に軍事組織を持ち、強制収容所管理局さえ内在し、当初よりファッショ的性格を持っていた。パヴェリッチは34年からイタリアに潜伏し、セルビア人の絶滅と追放を計画していた、文字通りのテロリストである。
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アンテ・パヴェリッチ

さて、建国したてのクロアチア独立国の領土は現在のクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの両方を含むかなり大きなものだった。このためクロアチア人は全人口650万人の半分にすぎす、人口の三分の一はセルビア人であるという事態にいたった。

きたる独ソ戦に兵をさかれたくないヒトラーは、この地域の治安と統治をこのテロ組織ウスタシャに委ねたのであった。パヴェリッチは指導者を意味する“ポグラヴニク”を名乗りナチスの傀儡政権を誕生させた。
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《総統》とパヴェリッチ

あまりに急に表舞台に出てきたこのウスタシャの党員は政権獲得当時わずか数百人だったと言われている。
おまけに政権内部に激しい対立があり、その暴力的性格以外の共通項は一切なかった。指示基盤の薄いウスタシャを支えたのは全国的に組織を持つカトリック教会であった。カトリックの聖職者はウスタシャの幹部要員を提供し、新しい党員も提供したのだった。
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パヴェリッチとフランシスコ会の僧侶たち

色々な意味で不安定だったウスタシャ政権だったがそれでも素早くとりかかった仕事があった。セルビア人とユダヤ人の粛清である。

ウスタシャはセルビア系住民を民族の怨敵とみなし、「セルビア人問題解決」を国の生死に関わる最重要課題とした。政府要人はセルビア人の完全排除を求め、ウスタシャ幹部は各地の政治集会で反セルビア人宣伝を展開した。

ボルコビッチ外務大臣は演説で、
”クロアチア民族にとり、異質異端でクロアチア民族の健全な力を萎えさせ、クロアチア民族を数百年にわたり次から次へと悪におとしめた全要素から民族を浄化しなければならない。それは我が領土に住むセルビア人とユダヤ人である”
とセルビア人を市民とは認めない発言を行った。

ジャニッチ・ウスタシャ公安問題担当代表は演説で、
”この国を真にクロアチア人の国にし、セルビア人から浄化するために、ウスタシャである我々が使わない手段は無い。セルビア人は数百年にわたり我々を危険に陥れたし、今後も機会があればすぐに我々を脅かすであろう”
と手段を選ばずセルビア人を除去する必要性を強調した。

さらに、パヴェリッチ親衛隊の首領でカトリック司祭のイヴォ・グヴェリナは、東方でカトリック信仰の「前哨に立つ」ことを神の摂理が定めた任務とし、「傍観は創造主に対する罪」と直接行動の勧めを行っている。

西洋文明と野蛮とされるバルカンの間にあるクロアチア人のカトリック的使命と純粋なクロアチア人のカトリック国家復活を強調することは、西洋の帰属を望む願望の裏返しでもあった。それはヒトラーに対して「クロアチア人がスラブ民族ではなく究極的には血統的にも種族的にもゲルマン民族に属することを証明したい」というパヴェリッチの発言に表現されている。

パヴェリッチの代理を務めたブダク文化教育大臣は、41年6月6日セルビア正教徒を放置すればその流布範囲が西に拡大して、カトリックに害をもたらすことを強調した。41年7月22日ゴスピッチにおける演説で、
”われわれはセルビア人の3分の1を殺害し3分の1を国外追放し、残りをカトリック信仰に改宗させてクロアチア人にする。そうすれば新しいクロアチアから完全にセルビア人を排除でき、10年以内に100パーセントのカトリック化が可能である”
とし、これがクロアチアの政策目標となった。同時に国家樹立直後から進行中であった民衆レベルでのセルビア人迫害を正当化した。
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セルビア人が強制改宗される様子

クロアチア独立国のセルビア住民粛清思想は、彼らが単なるナチの傀儡であるという考えからいったん離れなければ理解は難しい。クロアチアの、ひいてはユーゴ全体の歴史から育まれてきた純粋培養された憎悪がそこにある。とりわけ東方世界と西方世界との境がドリナ川にあるとの思想から、クロアチアが野蛮な東方世界に対する防波堤となることが強調される。

こうして民族の悲願たるセルビア人の粛清は、速やかに始められた。

聖職者の反セルビア的発言は武装ウスタシャ(ウスタシャの武装部門で、ナチの≪武装親衛隊≫と似た組織)や一般市民によるセルビア人の殺害を正当化する機能を果たした。さらに通常の刑事行政裁判所ではなく、「武装ウスタシャ」の管轄下に置かれた移動式・駐留式の即決裁判所が設置されてテロ行為を法的枠組みの中で行うことが可能になった。

1941年5月4日の法令で、「秩序安寧局」の設置が決定され、「ウスタシャの闘争とクロアチア民族による蜂起がもたらした成果を維持しクロアチア国家を防衛する」目的でナチス親衛隊に倣った武装ウスタシャと警察機構の構築が開始された。これがクロアチア独立国におけるテロの執行機関である。8月には秩序安寧局を拡大強化した「ウスタシャ管理局」が創設され、全収容所システムをその支配下に置いた。
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ウスタシャ兵士

「ウスタシャ管理局」はドイツの≪帝国保安本部(RSHA)≫と同様、秘密情報局と国家保安警察の機能を備えたウスタシャの組織で、パヴェリッチが直接任命する司令官がその頂点に立った。ウスタシャ管理局は全国下部組織の上位に位置づけられ、パヴェリッチが管理局を通じて直接的に市民の生活を監視することとなった。
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異論は許されない。例えクロアチア民族でもすぐに国民としての資格を剥奪されたのだ。

管理局は危険分子を特定しその収容期間を決める権利など、収容所に関して無限の権限を持っていった。

クロアチア独立国の最初の絶滅収容所はヤドヴノ絶滅収容所である。また、ゴスピッチ収容所群もヤドヴノまでの中間施設として、収監は確実な死を意味していた。

ヤドヴノは外界から視界を遮断された谷間にあった。周囲は鉄条網で囲まれ、囚人はカルスト地形にある穴に落とされて殺害された。ゴスピッチの警察長官と県知事が収容所を組織し、収容所防衛は武装ウスタシャが担当した。ヤドヴノにはゴスピッチ経由で毎日1000人前後のセルビア人やユダヤ人が全国各地から到着し、殺害された人数は35000とも72000とも言われる。

また他にもアドリア海に浮かぶパグ島にも絶滅収容所があった。囚人の殺害場所はパグ島と大陸間の運河であったが、陸で殺害された者より、むしろ重石をつけられ溺死した人の方が多かったという。大量虐殺を唯一の目的としたパグ島の絶滅収容所は、8月20日に閉鎖され、生き残ったユダヤ人450人のうち、多くはヤドヴノやヤセノヴァツに送られた。

ヤセノヴァツ収容所群は第1から第6まで6つの収容所から構成される。ヤセノヴァツにはインフラが存在し、ザクレブとベオグラードをつなぐ鉄道の近くにあるという交通利点以外に、三方を川に囲まれ、外から攻撃を受けにくく、脱走も困難という特徴があった。

囚人の処刑道具は50通りにも及び、リボルバー、カービン銃、機関銃、爆弾、ナイフ、斧、まさかり、木槌、鉄の棒、ハンマー、つるはし、ベルトや革の鞭と多岐にわたり、殺害方法も、絞殺、火炙り、火葬、凍死、窒息、餓死など様々であった。
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”セルビアカッター”と呼ばれる特殊ナイフ

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ウスタシャと言えば木槌だ

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ヤセノヴァツ収容所における処刑

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彼は泣き叫んでいる

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レンガ工場の炉を改造した「製陶所」と呼ばれた焼き窯の前に囚人を立たせ、生きながら窯に押し込み殺害する試みもなされた。

ウスタシャはヤセノヴァツ近隣を行政も警察の手も及ばない自らの帝国とするべく、近隣の村々の住民を「浄化」しようとした。これにはクロアチア国土防衛軍と武装ウスタシャ隊員が参加した。

これらの掃討作戦で最も有名なのはドラクセニチ村の虐殺である。掃討作戦の開始された42年1月14日はセルビア正教の元旦にあたり、男性は新年の集いに行って留守であった。ウスタシャは司令官が話をするという口実で残った村人に召集をかけ、教会内で鈍器による虐殺を実行した。犠牲は200人にのぼり、女性2人と2歳の子供が生き残っただけであった。こうして処刑地と遺体の埋葬地を確保したウスタシャ司令部は、内務省を通じて全地方機関に、「ヤセノヴァツ収容所は囚人を無制限に受け入れることができる」と通達した。

42年8月まではヤセノヴァツで集団殺害が行われたが、それ以降はドイツ側の指示でアウシュビッツ絶滅収容所へ送り込まれた。しかしヤセノヴァツ収容所群は45年まで存在していた。

こうして殺された人の数は73万人とも言われるが、正確な数字を把握することは不可能とされる。

ヤセノヴァツ収容所周辺の地域はもとはセルビア人が多数を占める地域であったが、ヤセノヴァツを中心拠点とした、ウスタシャ帝国の拡大と住民の粛清はその後も続き、42年5月8日に住民の殺害と追放が終了してついには従来の住民がいなくなってしまった。

大人が粛清されれば、子供が後に残される。その子供たちを収容する強制収容所が必要とされた。子供たちも親が死ねば育てる人間もない。多くの乳幼児が近くを流れる川に放り込まれて殺害された。ある独軍中尉は数百人の子供達が青空の下、水や食べ物を求めて泣いていたのを見た。

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ある女性囚人はその収容所の様子をこう述懐する。
”寄る辺のない子供たちが横たわっていた。泣く力もなくゆっくりと静かに死んでいった。同じように途方にくれた女性の囚人が子供たちの面倒をみた。ある時病気の子どもを塔の屋根裏部屋に連れて行くよう命令を受けた。その部屋に司令官が毒ガスを送り込んだ。その後命の炎が完全に消し去られたかのようにゾッとするような静けさが支配した”
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このような絶望的過渡期を経て、パヴェリッチは子供達を再教育するための特別な収容所を複数設置した。各地の収容所に散らばっていた子供達はそこに移送され、クロアチア人の家庭に養子に出されるなどした。

ヤセノヴァツ収容所群で死亡した子供の中で、名前が確認されているのは19431人に及ぶ。

親から引き離された子供の囚人はアイデンティティを消され、番号だけの存在となった。物心つく前の乳幼児は親の記憶もないまま幸運な場合はクロアチア人家族に引き取られ、クロアチア人として新たな人生をもらった。その際誕生日の判明しない子供はクロアチア独立国の建国記念日である4月10日を誕生日として押し付けられた。新しい名前をつけられカトリックの洗礼を受けた幼児たちの多くは、その後クロアチア人として育ち、90年代のクロアチア内戦においてセルビア系隣人および実の親族に銃口を向け、「兄弟殺し」に巻き込まれることになる。

悲劇はヤセノヴァツだけではなかった。地域における大量虐殺は国家成立直後から各地方で見られ、1941年6月から7月にかけて1つのピークを迎える。その残虐さは際立っていた。ナチのアインザッツグルッペをしてその粛清の様子を「衝撃的」といわしめたほどであった。
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虐殺は各地で吹き荒れた

42年2月7日カトリック聖職者の率いるウスタシャ歩兵大隊が、短時間に大規模な殺戮を遂行した。この日は以前から降り続いた雪が1メートルほどの高さに達していた。早朝4時、まだほとんどの村人が就寝中だった頃、ザクレブから出陣した約120人規模の部隊は、合流した地元のクロアチア人武装住民の導きにより、村々を包囲、一斉に襲撃を開始した。

丸腰のまま襲われた住民は逃げ場を失い、あるものは布団の中であるものは家の中を逃げまどううちに斧や鎚で殺害された。銃殺されたものが少なく、斧や鎚などの鈍器が虐殺に使用された事は殺害手口の特徴として際立っていた。

聖職者を伴う武装ウスタシャ部隊が2月7日午前4時、炭鉱を占領し、斧やマサカリで37人のギリシャ東方正教の労働者を殺害、その後斧やマサカリでギリシャ東方正教の男性女性子供の殺害を続け、ある村で約715人、その他の村とあわせて、約1,500人を殺害した。虐殺から3日経った後も死体は転がったままで、死体は犬と豚が食いちぎっていたという。

クロアチア独立国のこのような無実の人々に対する蛮行は、肉親を失った大量のセルビア人をチトーの民族解放戦線に提供し、その勢力を拡大させることとなった。

ドイツの関係者は、クロアチア独立国におけるテロ行為の激化が、治安のさらなる悪化とドイツ国防軍一般に対する信頼失墜に直結しかねないとの危機感から、クロアチアに度々その抑制を申し入れるが、その効果は見られなかった。
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チトーの民族解放戦線。家族を殺された女性が多く参加していた。

戦争末期になると、バチカンがパヴェリッチら約200人のウスタシャに対しアルゼンチンへの逃亡ルートを確保した。その後ウスタシャの首領パヴェリッチは、教皇ヨハネ23世に祝福を与えられピウス12世から41年に送られたロザリオを手に、マドリードで息を引き取ることになる。

そして戦後チトーが死去するまでの35年間、収容所の跡地は意図的に消し去られヤセノヴァツについて公に議論することは禁じられた。同時にバチカンもクロアチアの国家犯罪のカトリック教会の関与を記した書物を当初から発禁処分にするなどした。

ヤセノヴァツは神話であると主張し、その無害化を図った新生クロアチア共和国は、92年国際社会の支援を得て独立を達成した。95年まで続いたクロアチア内戦は、クロアチア側セルビア側双方ともに多大な人的損失を出したが、最終的にはセルビア人に対する粛清と民族浄化はほぼ完了してしまった。
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ユーゴ内戦で”ネオウスタシズム”が復活する。

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彼らの残虐性は50年経っても全く変わっていなかった。


ホロコースト歴史地図―1918-1948
ヨーロッパ ユダヤ人の絶滅
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大量虐殺の社会史―戦慄の20世紀
反ユダヤ主義の歴史〈第4巻〉自殺に向かうヨーロッパ
カトリック聖職者のウスタシャへの関与<外部リンク ウィキペディア>
http://www.holocaustresearchproject.org/othercamps/jasenovac.html
http://bogihrvati.webs.com/truth
http://www.fact-index.com/u/us/ustase.html#Neo-Usta%C5%A1ism