自由フランス軍というとどんなイメージだろう。連合軍のノルマンディー上陸でなんとか息を吹きかえしたというイメージが付きまとう。実際自由フランス軍はアメリカ軍司令部の傘下で戦うこともあり、兵士たちは米軍の制服を改造したりそのまま着てるものもいた。 このような事実はプライドの高いフランス人にとっては耐え難い屈辱だったかもしれない。しかしフランスが単独でナチを倒すことはできそうになかったし、ポーランド国民軍のように単独で雄雄しく戦ったということもない。自由フランス軍はアメリカ軍団に属し、各地で狂態を繰り広げた。 1944年アメリカ陸軍に属するフランス第二戦車師団はショモン近郊のアンデロ村を占領すると、投降したドイツ兵士500名を一箇所に集め、戦車砲弾を撃ち込み機関銃で皆殺しにした。これを命令したロベール・ガレ少尉はオルガ河岸で一人の司祭をSSが変装していると思い込み、油をかけて焼き殺した。アランソンの近郊では投降してきた捕虜を全員射殺。またある村では東欧のSS傭兵を縛り上げて焼き殺した。アルザス地方では戦争捕虜200名を銃殺。戦後ガレはド・ゴール派に属し、住宅相、科学相などを歴任。トロア市長にもなった。戦後のフランス社会ではドイツ兵をたくさん殺した者ほど英雄とみなされたのである。また1945年4月中旬、フロイデンシュタットを占領したフランス軍は家屋に砲撃を加え、消火活動を禁止し、モロッコ人の兵士たちに略奪とレ×プを許可した。15~60歳の女性数千人がこのようにしてレ×プされた。これはオラドゥール村(参考リンク)への報復との説もあるが、あまりにもひどい。ソ連赤軍顔負けである。 その後戦況はますます第三帝国崩壊へと傾いていた。5月、《フューラー》の自殺後、各地で戦意を失った残兵たちが投降していた。件のフランス第二戦車師団は”英雄”ルクレール将軍に率いられていたが、各地でのレ×プ・略奪は日常茶飯事であった。師団はオーバーザルツブルク攻撃の為に英気を養っていた※(つまりいつものように略奪とレ×プをしていた 兵士はほとんどモロッコ人である)。 ※オーバーザルツブルクには要塞拠点があり、ボルマンやゲーリングがここにいると噂されていた バート・ライヒェンハル近郊で独軍《武装SS》所属のフランス義勇師団《シャルルマーニュ》の残兵12名が米軍に降伏した。彼らはルクレールのフランス師団に引き渡された。12名はルクレール将軍の前線司令部に連行され、将軍が直接尋問の為に彼らの前に姿を現した。 将軍は開口一番「お前たちは外国の制服を着て恥ずかしくないのか?!」 壮絶なブーメランであった。ルクレール将軍はさぞ言い返す言葉もなく真っ赤になったであろう。彼は米陸軍に所属しており、その場で唯一アメリカ軍の制服をそのまま着ていたのである。将軍は捕虜の銃殺を命じた。軍法会議も裁判も開かれなかった。明らかに正義のない銃殺。醜く男らしくない報復であった。 自由フランス軍内にもこの大儀なき処刑に反対するものは多かった。処刑班を募るのに難儀したという。誰もそんなことはやりたくなかった。時は1945年5月8日17時、ドイツの降伏は既に決定しており、その効力はあと数時間で有効となるはずであった。彼らは死ぬ必要は全くなかったのである。対独協力者とはいえ、信念を持ち、ポメラニア戦線で赤軍相手に最後まで奮戦したフランスが誇るべき勇士たちだったのである。 銃殺は4名ずつ3回に分けて行われた。彼らは雄雄しくフランス万歳を叫び死んでいった。 死の直前、なぜ対独協力に走ったのか聞かれた捕虜の一人はこう語った。 ”俺の親父は1914-1918年の戦争中にベルギー戦線で戦死し、お袋は俺を捨てた。それからリヨンに住む老女に引き取られた俺は、財政面で彼女をできる限り手助けするために反共フランス義勇軍団へ入隊した。俺があんたに言えるのは、俺はアカどもと戦ったがフランス人には1発も撃っていないってことだ。” またある兵士はこうも語った。 12人のフランス勇士のために毎年5月になるとクーゲルバッハ湖畔で追悼式が行われている。 世界戦争犯罪辞典 |