第三帝国極悪伝説外伝
ルーマニア編②
ユダヤ人狩りと死の列車

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“lasi”
”ヤーシ”のポグロムはユダヤ史において最も獰猛なポグロムの一つである。これはヒトラーの親衛隊とルーマニア軍によって引き起こされた。

独ソ戦が始まってわずか三日後、このヤーシの街でソ連空挺部隊とパルチザンの活動が報告された。それを口実にルーマニア軍第十四師団スタブレスク将軍はユダヤ人狩りを命令した。
1941年6月28日朝、ドイツ空軍の爆撃が始まり、夜には虐殺が始まった。ヤーシの警察や憲兵隊に警察署や上水道などに集められたユダヤ人は皆殺しにされ、通りでも無差別の狙撃、レ×プ、略奪が続いた。加えてルーマニア軍と《特別出動集団D隊》(einsatzgruppeD)はユダヤ人を問答無用に狩り集め、その場でしらみつぶしに殺していったのである。このポグロムには無数の市民が加担し、ほとんど暴徒と変わらぬ野蛮さで略奪、拷問、目を覆うような蛮行が行われた。

このポグロムで少なくとも8000人が死亡し、生き残ったユダヤ人約4000名が貨車に乗せられ移送された。だが移送に目的があったわけではない。どこに着くでもなく列車は同じ路線を往復し続けた。牛用貨車には鍵がかけられ、ユダヤ人は貨車の中で飢えと乾きと窒息で死んでいった。時折死体を降ろすために列車は停車したが、この「旅」が終わるまでに2544人が帰らぬ人となった。

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”死の列車”

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貨車から降ろされる死体しかしルーマニアのこのような蛮行は来るべきものの予兆に過ぎなかった。大激変がベッサラヴィア、ブコヴィナ、ドロホイ地方のユダヤ人を待ち構えていた。いまやブコヴィナとベッサラヴィアをボリシェヴィキから取り戻したルーマニアの恐ろしい復讐が始まろうとしていたのである。

クルツィオ・マラパルテの名著「壊れたヨーロッパ」にこのヤーシ大虐殺の黙示録的光景がつづられている。
以下に引用する。

火事の照り返しをあびて、黒山の興奮した人々が記念碑の足もとに折り重なっているのが見えた。ほとんどは女で、時折その人垣から立ち上がる者があり、広場を逃げ惑っては親衛隊の銃弾に倒れた。大勢のユダヤ人が路上を逃げ、それを兵隊や暴徒と化した市民が手にナイフや鉄の棒を持って追いかけた。憲兵隊が銃の台尻で家々のドアを打ち抜いた。突如、窓が開け放たれ、髪のほどけた肌着姿の女たちが、腕を振り上げて叫びながら現れた。…分隊分隊の兵が、小窓を覗き込み、地下室へ次々と手榴弾を投げ込んでそこへ必死に避難した大勢の人たちを屠った。…夥しい殺戮のあった現場では血に足をとられた。

“ポグロム”という陽気で獰猛な労役が、道から道を、家という家を、銃声と泣き声と絶叫と残忍な笑い声によって侵しつくしていた。

歩道はどこも折り重なった死者で埋まっていた。墓地の中に何百という死体が山のようになっていた。…ユダヤ人の数班が機関銃を提げた憲兵隊と兵隊に監視されながら、死者を片付ける作業をしていた。…死体を載せたドイツ軍とルーマニア軍のトラックが通った。

ふと人の声とおぼしき陽気な音が耳に響いた。笑い声、呼び声、にぎやかに答える声がした。道に人が溢れていた。兵隊や憲兵隊、つれだった民衆の男女、長いおさげ髪のジプシーの群れが楽しげに騒がしく、互いに品定めのお喋りをしながら死者の服を剥ぎ取っている所だった。

死体を次々ともちあげ、ひっくり返し、右に左に転がしては上衣を、ズボンを、下着を抜き取り、足で腰部を押さえつけて靴を抜き取った。分捕り合戦に駆けつける者もあれば、両腕に山のように衣類を提げて離れてゆく者もあった。それは祭りの賑わい、楽しい労働であり、市であると同時に祝祭だった。




ルーマニア史
ヨーロッパ ユダヤ人の絶滅
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壊れたヨーロッパ
http://www.zionism-israel.com/dic/iasi_pogrom.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Ia%C8%99i_pogrom