第三帝国極悪伝説外伝
ウクライナ編
「炎628」の元ネタ
ハティニ村虐殺事件

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最も胃に悪いとして有名な、どんより最悪虐殺映画「炎628」これに元ネタがあることをご存知だろうか?

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それはベラルーシのハティニ村。どんな細かい地図にも載っていないだろう、とまで言われたちっぽけな村である。1943年3月22日、この村をドイツ軍が襲撃し、住民149人を皆殺しにし、家屋を焼き払い、物資を略奪した。149人のうち約半分は子供であったという。なぜこのような類を見ない残虐なことが起こったのか?実行犯は第118警察補助大隊。クリストファー・ブラウニングの「普通の人々」やダニエル J.ゴールドハーゲンの「普通のドイツ人とホロコースト―ヒトラーの自発的死刑執行人たち」などで、ドイツ通常=秩序警察(オルポ)による戦慄の虐殺の記録が残されている。

ホロコーストの主力を担ったのは何もSSやSDばかりではない。SSと同化しきれていない組織だったオルポも大きく深く関与していた。むしろ主力実行部隊だった。では第118警察補助大隊もオルポなのか?そこがまた複雑怪奇な警察国家ナチス。また違うのである。第118警察大隊はオルポではなく、ウクライナ人や占領地の現地警官、ソ連兵捕虜などによって構成されるシュッツマンシャフテン、或いはヒルフスポリツァイと呼ばれる組織で、まあ補助警察とでも訳しましょうか。まあ指揮系統は管区のアインザッツグルッペやSDの下にあったようだが、必ずしも指揮官はドイツ人ではなかった。

第118警察補助大隊は1942年にキエフ(ウクライナの首都)で結成された。構成員はウクライナ人、ソビエト兵捕虜、オスカル・ディルレヴァンガー隊より拝借した犯罪者兵士などである。ウクライナ人も、裏切った赤軍兵もボリシェビキ体制に弾圧を受けた被害者であり、ソビエト政府を深く恨んでいる者が多かった。「共産党員とユダ公を殺すためなら何でもやる粗暴な連中」である。何度もここで説明しているが、当時はユダヤ人=共産党員=パルチザンであり、それらは見つかれば即刻問答無用で逮捕→死刑であった。ディルレヴァンガー隊も説明不要かと思うが、最悪の犯罪者部隊であり、この118番目のシュッツマンシャフテンは無茶苦茶粗暴で危険な部隊だったと言っていいだろう。バービ・ヤールの大虐殺でも殺しの経験を積んだウクライナ人が多数潜り込んでいたようである。何よりその粗暴さを証明するのが、パルチザンだらけのベラルーシに送られたこと、と言うものもいる。

さて、いくら粗暴とは言え、なぜこの第118警察補助大隊が、子供だらけのどう考えても危険のないハティニ村を襲ったのかが最大のミステリーとなるだろう。

1943年3月22日、大隊の輸送船がハティニ村から6kmのところで攻撃を受けた。そこでオリンピックの砲丸投げの金メダリストだったHans Woellke大尉が死亡。報復にハティニ村が選ばれ、襲われたのである。

警察大隊は村を包囲し、侵入すると人々を家から無慈悲に追い出した。女も子供も老人も病人も銃の台尻で殴られ小屋の中に追い込まれた。1歳の子供や7週目の乳児もいた!逃げようとした少女はドイツ兵に連れ戻され、父親の眼前で撃ち殺された。大人でも逃げられたものはいなかった。

村民は皆小屋の中に閉じ込められた。大隊はワラで小屋を覆うとガソリンをぶっかけて火を放った。炎と煙の中で子供たちは泣き叫び、苦痛の中で死んでいった。

ほぼ同じ筋立てであるが、「炎628」の映画の中ではこうやって小屋の中で人々はひとり残らず死に絶えてしまう。だが現実は違った。小屋は焼け落ちる過程で脆くなってゆき、狂乱状態の人々の圧力で外に這い出る出口を生じさせたのである。そして人々は炎から逃れようと外に飛び出した。だが、大隊はそれを待っていたかのように冷静に射撃し、全員撃ち殺してしまった。その後村は略奪され、焼き払われた。こうして村民149名が死亡した。75人は子供であった。

生存者は7歳と12歳の子供と56歳の男性。7歳の子供は母親が身を挺してかばい、その母親の死体の下で隠れていたために助かった。12歳の子供は爆弾で足を失い、死んだように気絶していたので助かった。56歳の男性は生き残ったが息子を失った。彼の姿が上写真にある記念碑のモデルとなっている。

ナチ占領下の3年間でベラルーシは5295の村々がドイツ軍や警察に破壊され、223万人の人々が死亡した。これは当時のベラルーシの人口の4分の1にあたる数字である。628どころではなかったのである。

大隊司令部のチーフだったGrigory Vassiuraは、この虐殺で裁かれた数少ない実行犯である。彼は118補助警察大隊の司令部要員でしかも最も高い地位にあった。彼は残虐で、この他にも数々の虐殺作戦に関与したとして1986年ミンスクの法廷で死刑を言い渡された。虐殺を命令した者、もっと高い地位で指揮を取っていた者は裁かれず特定すらされていない。
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Grigory Vassiura

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被害者の現存する写真

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Joseph Kaminsky A. Baranovsky V. Jelobkovich

生存者は3人だけだった・・。


http://khatyn.by/en/tragedy/
http://en.wikipedia.org/wiki/Khatyn_massacre
http://socyberty.com/history/the-khatyn-massacre/

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