第三帝国極悪伝説外伝
ソビエト連邦編②
どん百姓から食い物をぶんどれ

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チェーカーが粛清を一段落させた1921年、ソ連の政治警察はOGPU(合同国家政治保安部)と名を変えたが、初代長官にはやはりフェリクス・ジェルジンスキーが就任した。

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旧帝政派のロシア軍人や白衛軍との過酷な内戦が終了し、異常にひっ迫した国内政策(戦時共産主義と呼ばれる)により荒れ果てた経済を立て直すため、部分的な自由市場が認められ(ネップ)、ネップマンというある程度政治的自由を与えられた商人や実業家が現れた。ネップは内戦でボロボロになったソビエト経済を立て直し国は潤ったが、これは社会主義体制との矛盾を生むとして、レーニン死後スターリンは「ネップは失敗」と断言。第一次五カ年計画と呼ばれる重工業と集団農業化を目指す計画を発表する。

これら重工業化の資金として目をつけられたのが肥沃な穀倉地帯であったウクライナの穀物・農産物でこれらを大量に輸出し、外貨を獲得して重工業化を目指すというものだった。それと並行して地主や豊かな農民(富農=クラークと呼ばれた)から土地を没収し、小作農に分け与える・・との美麗な名目のもと、集団農業=コルホーズの建設が急ピッチで進められた。

だが、その実態は地主たちをOGPUやコムソモール(共産党青年団)が銃殺・強制追放し、空白の土地を党・国家が占領し、党運営のもとで奴隷たる貧農を働かせ、収穫を全部ぶんどる・・こういったものだった。

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ソビエト連邦による農業の集団化は、結局のところ減産を招いた。農民が集団化に抵抗したのと、ぶんどった土地の多くが有効に活用されず単に放置されたからである。だが、食物の輸出量は1928年5万トン、29年65万トン、30年には242万トン、31年には259万トンと5年間で50倍にも膨れ上がった。これは農民たちの食べる分がそのままそっくり収奪されたことを意味している。32年から33年のあいだで、ウクライナの農民は700万人が餓死した。これは20世紀最大の悲劇の一つであり、ナチスのホロコーストに匹敵する恐るべきジェノサイドである。

スターリンは1929年から富農の撲滅にとりかかった。だが富農とは一体なんなのだろうか?本当にそんな階級は存在したのだろうか?富農だとシベリア送りになった者たちの中には誰がどう見ても一切何の財産もない「貧農」もいた。富農も財産を没収されれば貧農になる。だがそんな”元富農”も結局あとで強制労働や禁固刑を課されることが多かった。富農というくくりは結局政治的にソビエト権力に従わないものをもカテゴリーに含めることになった。民族主義者やそのシンパも富農というくくりに入れられることが多かった。単に地方の共産党員に逆らった者も富農として撲滅された。人々を富農に仕立てるのは簡単だった。

”告発状を一通書けばいいんだよ。サインもいらない。告発した相手が、雇った農場労働者らに賃金を支払ったとか、彼が雌牛を三頭持っているとか、言えば済むんだ。”
人々は良き共産党協力者になろうと隣人同士をおとしめあった。富農は事実上無限に存在し得た。誰でも富農として撲滅される危険があった。

ヴァシリー・グロースマンの小説に登場する女性は富農についてこう語っている。
「誰が一体この《富農》という言葉を思いついたのかしら?それは何を意味するのかしら?なんという苦しみが彼らに与えられたことでしょう!富農を大量に虐殺するためには彼らが人間ではないということを主張しなければならなかった。ちょうどドイツ人がユダヤ人を人間ではないといったように。それでレーニンとスターリンは富農が人間ではないと主張したのだわ!」
ナチスとソ連・・ナチスは人種で、ソ連は階級で、人々を差別し弾圧し絶滅させようとした。思想は違えどやり方は同じ、まるで兄弟のようだ・・そう思いませんか?

ウクライナはソビエト連邦の支配を限定的にしか受けていなかった。簡単に言えばまだ支配しきれておらず、反抗的な者も多かったのだ。スターリンのウクライナ嫌いは相当なものだったらしく、1930年にネップの再開を主張する右派を打倒すると、スターリンはまずウクライナ知識人・民族主義者をなぎ倒した。OGPUはウクライナ民族主義者たちのグループを摘発、学者や知識人ウクライナ解放同盟のメンバーがのきなみ逮捕された。次の標的は農民だった。スターリンは農民の中にもウクライナ民族の独自性を先導するものがいることをはっきり理解していた。農民の代表者、代弁者たちを駆逐することによって国を解体することが目的だった。OGPUは農民も攻撃目標として徹底的に弾圧した。ウクライナ共産党員も弾圧された。彼らは富農など我が国には存在しないとかばい続けていた。それがスターリンの癪に触った。

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1931年、ウクライナの収穫高1830万トンの中から770万トンの供出が要求された。集団農場の不効率によって前年度の30%の穀物が失われていたウクライナにとって、それは42%にあたる膨大な”年貢”だった。ウクライナの指導者たちはモスクワを説得してその要求を引き下げようとしたが無駄だった。実際に徴発できたのは700万トンだったが、32年の晩春には既にウクライナで飢饉が発生していたことを物語っている。

32年7月、決定的な事件が起こる。スターリンがまた770万トンの徴発を要求したのである。収穫は豊作だった1930年時の3分の2にまで落ち込んでおり、これは完全に現実を無視した数字だった。

1932年8月、これらのノルマを達成するべく最初の徴発が行われた。多くの地域で大変な努力を払ってノルマが達成された。しかしこれが地方を疲弊させた。10月、OGPUの長官代理、A・アクゥーロフと集団化で功績を上げたスターリンの腹心M・M・ハタエーヴィチがモスクワから送り込まれ、二度目の徴発が始まった。徴発は目標を半分も達成できず、人々は自分の食べる分も奪われ既に餓死しつつあった。だがモスクワは要求の手を緩めるどころか今こそ飢餓によるテロの道に突入していった。

集団農場で働かされた人々は狂気の規則に縛られた。集団農場で作られる農作物は国家の所有であり、「神聖にして犯すべからざるもの」とされ、これに反する罪を犯したものは人民の敵とみなし、財産を没収され少なくとも10年の禁固刑、銃殺刑に処された。畑でわずかな小麦を拾い集めた農婦も有罪となった。二束のとうもろこしを盗んだために銃殺刑にされた例もある。

ある農婦は自分の自営地で実ったとうもろこしをを刈り取ったために10年の刑がくだされ、その2週間後に夫が餓死した。
別の農婦は玉ねぎを十個畑から掘り出して十年の刑になった。
多数の農民が死んで埋められた馬の肉を食べたとしてOGPUによって銃殺刑になった。
集団農場では銃を持った監視員が常駐し、農民たちは常に見張られ、食べ物は全て奪い去られていった。

食料徴発隊は共産党員、コムソモール、地元の教員・学生、村ソヴィエトの理事や議員、OGPUで構成された《ブリガーダ》と呼ばれる作業班で、ほとんど盗賊と変わらなかった。作業班は家から家へと渡り歩き、家の中を隅から隅まで探し、屋根裏や床を破壊し、庭を踏み潰し、棒を突っ込んで穀物を探した。1931年にはこうした方法で穀物が見つかることもあったが、1932年のこの時期にはほとんどそんなことはなくなっていた。本当に食べ物はもうどこにもなかったのだ。作業班は食べ物だけでなく、衣服や値打ちのあるものは全部取り上げた。イコンや絨毯、台所用品、金銭まで。

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共産党の幹部や党の代理人はたらふく食べており、飽食そのものであった。村の教員たちは作業班として食料徴発に加わることを条件に十分な食料を受け取っていた。村の農婦は食べ物欲しさに共産党の官吏たち相手に売春した。こうした食べ物が豊富にあるオアシスの周辺で飢饉と餓死が広がっていた。

村でも街でも国の組織にハッパをかけられ、残虐行為が広がっていた。

ある妊娠中の女性が小麦を引き抜いたとして板切れで打ちすえられ死亡した。
三人の子供を抱えた母親は集団農場のじゃがいもを掘り出したとして警備員に射殺された。子供たちは全員餓死した。
ある村では穀物をむしり取ったとして7人の農民と14歳と15歳の子供達3人が銃殺された。

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作業班は狂ったように食物を探しまわり、飢餓によって手足の浮腫が生じていない農民の家を怪しんで捜索した。しまいにはサヤエンドウ、ジャガイモ、サトウダイコンまでも取り上げた。餓死したものたちも瀕死の者たちも一緒になって共同墓地に放り出された。

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食べ物は全部輸出されたわけでも都市にばかり流出していたわけでもない。国の倉庫にははちきれんばかりに豊富に食料があった。だが、それらの食料はウクライナの農民にはわずかも渡らなかった。餓死者が続出しても人間以下の富農には同情すら許されなかった。労働者と農民の政府は農民が飢えても穀物の一粒も与えなかったのだ。穀物やじゃがいもが野外で山積みになり腐りかかっていても、それはOGPUの係官によって警護され、農民たちには与えられなかった。これは一体何を意味するのだろうか?32年11月以降は暴動も頻発したがことごとく鎮圧され、暴動に参加した農民は銃殺刑となった。

1932年末、このようなひどい弾圧の中、結局470万トンの食料しか徴発できなかった。これは目標の70%ほどの数字である。共産党機関紙《プラウダ》はウクライナの階級の敵(=富農)とウクライナの共産党が手を結んでいるからだと断じた。餓死者が続出する中、一体どこに富農がいただろう?隠された食べ物があっただろう?どれほど農民たちが苦しもうが、中央政府は「富農が食料を隠している」と信じて疑わず、弾圧の手を緩めようとしなかった。
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路上で放置された《富農》とされた人の死体

人々の餓死は1933年初春に最高潮に達した。

雪が解け始めたとき、本物の飢餓がやってきた。人々は顔や足や胃袋をふくらませていた。彼らは排尿を自制できなかった・・。今やなんでも食べた。ハツカネズミ、ドブネズム、スズメ、アリ、ミミズ・・骨や革、靴底まで粉々にした。革や毛皮を切り刻み、一種のヌードル状にし、糊を料理した。草が生えてくるとその根を掘り出し葉や芽を食べた。あればなんでも食べた。タンポポ、ゴボウ、ブルーベル、ヤナギの根、ベンケイソウ、イラクサ・・

これら草にはタンパク質がない。人々は雑草を食べ尽くすと浮腫に苦しみ餓死していった。
飢餓。これは、魂を凍らせるほど恐ろしい暗黒の言葉だ。これを経験したことのない人は、飢餓の苦しみを想像することはできない。家長たる男にとって、妻が飢えた子供らに食物を見つけてやることができず、ただ祈るしかない妻の姿を見て、自分の無力を覚える時ほど辛いことはない。母にとって飢えのために笑うことを忘れてしまった子供、衰弱して妙な仕草をする子供を見るときほど、恐ろしいことはない。
たとえ、この飢餓が一週間か一ヶ月のことであるにせよ、地方のほとんどの家族が何もないテーブルを前にして過ごした日々は、もう何ヶ月にもなる。地下の物置は、きれいさっぱりとして何もない。村には一話の雌鶏さえいない。食用ビーツの種も食べてしまった・・。
飢餓で最初に死んだのは、男たちであった。そのあと子供らが死んだ。最後に女だ。だがみんな死ぬ前に正気を失い、人間であることをやめていた。

中央政府はウクライナで飢餓が生じていることを隠蔽し、箝口令をしいた。医者は死亡診断をつけるのに餓死と書く事を禁じられた。道路は封鎖され、移動は制限され、飢えた農民が都市部に出稼ぎに行くことは禁じられた。

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飢餓に陥ると人間の体にはわかりやすい兆候が現れる。
必要な脂肪と糖分が足りなくなるにつれて、体の組織が持つエネルギーが失われ、衰え皮膚は灰色をおび、無数のシワができ、みるみる老けてゆく。小さな幼児や子供でさえ老人に見える。彼らの目は大きく飛び出し、動かなくなる。手足と顔が膨張し、膨らみの上には発疹が吹き出し、それが化膿して痛みがやまない。動く力がなくなり、少し動くだけでひどく疲れる。呼吸と循環が、体の組織とタンパク質の一種であるアルブミンを消耗させ、体自体が力を失う。呼吸と脈拍が早くなり、瞳孔が開き、飢餓下痢が始まる。この状態になると非常に危険で、ちょっとした動きで心不全が起こりやすくなる。全身が衰弱し、起き上がれずベッドでも動けない。半分意識を失った状態が一週間ほど続き、心臓の鼓動が止まるのだ。

飢餓は人間の精神にも大きな影響を及ぼす。
人々はわずかな食料をめぐって殺しあった。自殺も多かった。親は子供の首を絞め苦しみから解放してやった。死体を切り刻み料理するものや、自分の子供を殺し食う者もいた。人々は子供を家から出さなかった。子供はいつでも誘拐されて食われる危険があった。人の食肉工場が摘発された例もある。
人肉食いを禁じる法律はなかった。だが人を食った者はOGPUに逮捕されて処罰された。
人肉食いをするまでに人々を追い詰めた者たちは誰ひとり逮捕されていない。

このおぞましい人為的飢餓は、一部の共産党エリートによって引き起こされた。中国、カンボジア、北朝鮮によって模倣され、繰り返されている。これは階級闘争の名を借りたジェノサイドであり、スターリンとその一味が自分の言う事を聞かない敵を撲滅するのに膨大な数の無辜の民を巻き込んだ最悪のテロである。

33年の冬までに、ウクライナの農民人口2000~2500万人のうち、四分の一から五分の一が死んだ。
彼らは孤独のまま、極めて緩慢に、なぜこんな犠牲になったのかという説明も聞かされずに、自分の家に閉じ込められ、飢えたまま置き去りにされ、ぞっとするような死に方をしていったのだ。

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ある農家はまるで戦争であった。みんな他を監視していた。人々はパンのかけらを奪い合った。妻は夫と、夫は妻といがみ合った。母は子供を憎んだ。しかし一方では最後の瞬間まで、神聖犯すべからざる愛が保たれていた。四人の子供を持った母親・・彼女は空腹を忘れさせようとして子供におとぎ話や昔話を聞かせてやった。彼女自身の舌は、もうほとんど動かないのに、そして自分の素手の腕さえ持ち上げられないのに、子供らを腕の中で抱いていた。愛が、彼女の中に生きていた。人々は憎しみがあればもっと簡単に死ねることを悟った。だが、愛は、飢餓に関しては、何もできなかった。村は全滅であった。みんな、一人も残っていなかった。


悲しみの収穫―ウクライナ大飢饉
共産主義黒書(ソ連篇)
http://www.holodomor.org.uk/
http://www.conservapedia.com/Ukrainian_genocide