第三帝国極悪伝説外伝
ソビエト連邦編①
金持ちは棒切れでぶん殴れ

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《反革命・投機及びサボタージュと戦う全ロシア非常委員会》・・長い名前である。しかしこれを略すとどんなロシア人でも無視できない恐怖のキーワードとなる。その名も《チェーカー》

ロシアにおいてレーニン率いる《ボリシェビキ》が革命を成し遂げ、生まれたばかりのソビエト政府が反体制派弾圧のために組織した秘密警察である。当事ソビエトの支配体制は脆弱で、ロシアのほんの一部しか統治できていなかったし、各地で反乱鎮圧に追われていた。そんな内戦期にチェーカーは産声をあげたのである。

《チェーカー》の創設者はフェリクス・ジェルジンスキー。ポーランド貴族階級の出身で、《プロレタリアート》とは言えなかったが、彼は間違いなく過激派であり、共産主義の敵に対して容赦のない男だった。ジェルジンスキーはレーニンやトロツキー同様、《ボリシェビキ》の輝かしい未来のためには、何十万もの政敵、その家族といった無実の人々さえ全て犠牲にすることもやむを得ないと考えていた。

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フェリクス・ジェルジンスキー。《チェーカー》の創設者である。

彼らの任務は《ボリシェビキ》に反対するもの、共産主義を推進する過程で邪魔になるものを排除すること、であった。率直に言って彼らは主に、帝政ロシア軍の残党からなる《白衛軍》のスパイを摘発したり、もっと直接的には金持ち、資本家、知識階級といった”ブルジョワジー”をぶん殴ったり撃ち殺したり収容所に叩き込んだりしていたのだった。

そんな虐殺の犠牲者には《ロマノフ王朝》ニコライ2世とその家族もいた。1918年8月、ラトヴィア人とオーストリア人の傭兵で強化された《チェキスト》は、レーニンの命令で捕らえられていた皇帝一族を皆殺しにした。皇帝、皇后、その子供たちは、従者や召使と共に、古い商家の地下室で放火を浴びて惨殺されたのである。銃弾で死ななかった者は銃剣でとどめを刺された。遺体はひそかに埋葬され宝石類が略奪された。《チェーカー》による処刑は旧帝国陸軍、憲兵、《オフラナ》捜査官(帝政時代の秘密警察)などにも及んだ。

1919年1月、全国で飢饉に見舞われていたソビエト政府は最悪の手段を選んだ。余剰食糧徴発制である。いまや家庭で余った食糧は政府に引き渡されなければならない。従わない者には死あるのみである。自分の収穫を守ろうとした農民は投獄されるか、その場で銃殺された。1919年4月にはそのようにして投獄された人々で刑務所は過密状態に。このことがきっかけで強制労働収容所が作られることになった。

チェーカーが奪い去ったのは食糧だけではない。それは国家による組織的な略奪だった。富裕階級から高価な贅沢品を全て奪ったのである。政府は旧帝政支持者や労働者階級の搾取者(社長とか地主とか)から金貨や宝石類を取り上げたいと考え、チェーカーはそれを実行に移した。略奪の対象は貴族や商人、教師や技術者、郵便局員・・などにも及び、希少価値の高い品、調度、絵画などが略奪された。それは直接チェーカー隊員にピンはねされたものも多かったとされる。

1920年11月まで《白衛軍》との内戦は続いたのだが、最前線はもっともっとひどかった。あらゆる都市や町に設置された《チェーカー》支部は、帝政政府の元官僚、憲兵、高官、白衛軍とその家族、1万ルーブル以上の資産を持つ市民全員に襲いかかった。何千人もの科学者や技術者が「搾取者」として殺害され、国内の医師のおよそ半数が殺されるか国外追放させられた。人々は自宅で、通りで、あらゆるところで《チェーカー》に殺害された。

ニコラーエフでは幼い赤ん坊まで父親の反逆の報復として銃剣で突き殺された。
ハリコフである白衛軍将校は、《チェーカー》支部の地下室で妻と娘の切り刻まれた死体を発見した。
ペトログラードでは6000人の白衛軍将校が裁判にもかけられずに銃殺された。
モスクワでは通りで数百人の子供たちが《チェーカー》のサディストに撃ち殺された。
キエフではローザ・シュヴァルツという元娼婦が率いていた処刑部隊が支部の地下室で約200人を拷問して殺害した。ボリシェビキがキエフを占領して半年間で10万人が殺されたという。
オデッサでは白衛軍将校や貴族を船の炉の両側に押し付けて焼き殺したり、骨をへし折って殺した。
ヴォロネジでは年齢に関わりなく貴族たちは樽に押し込まれ釘をうたれ、丘から投げ落とされた。
ニコラーエフでは《チェーカー》将校によって「階級の敵」が壁に塗りこめられて殺された。
ハンガリー、クリミア、ビヤティゴルスクでも殺戮が行われ、数万人の人々が惨殺された。

これらは全て共産主義の名の下に行われたのである。《チェーカー》は法の干渉を一切受けずに独自の権限で行動していた。レーニンは無批判だったし、《チェーカー》の行動を制限するものは皆無だった。1921年までこの無法状態は続き、《チェーカー》は事実上制御不能の状態に陥った。

一方、《チェーカー》に限らず《労農赤軍》もボリシェビキの手足となって反乱鎮圧の名の下に無実の人々を虐殺しまくった。英雄として有名なトハチェフスキーも数々の虐殺作戦に手を染めている。ありとあらゆるところに暴力がある。革命とはそんな混乱の時代であった。

《チェキスト》は色とりどりの個人で構成されており、サディストや殺人者・犯罪者、大企業の元熟年労働者、元ロシア兵、、元水兵、地方大学の闘士、非行少年たちなどだった。過激派チェキストの多くは17歳前後のティーンエージャーで、中には14歳の少年が甲高い声で「革命の名の下におまえを逮捕する!」ととある将軍のアパートを令状もなく急襲したというから驚きである。

《チェーカー》副議長ピータースはこう言った。「ソ連権力に不利な発言をした者は皆ただちに逮捕され、強制収容所に入れられるだろう。ブルジョワジーは労働者階級の過酷さを身をもって味わうべきである。資本主義者の泥棒、略奪者、投機家は全て強制的に土木工事に従事させられ、その資産は没収されるだろう。また反革命の企てにかかわった者は、革命労働者の重い鉄槌で粉々に打ち砕かれるだろう。」

内戦終結後、《ボリシェビキ》政府のまずい経済政策と破壊されたインフラと旱魃のために大飢饉が引き起こされた。ヴォルガ地方、ウラル、ロシア南部、ウクライナに住む2400~2800万人の人々が飢餓に襲われ、レーニンは飢餓に直面した都市部の人々を救うため、赤軍内部にまたしても食糧徴発隊の編成を命じ、各地の農村で食糧の略奪を行わせた。このことによる農民による大規模な反乱が勃発し、トハチェフスキーは農民反乱軍指導者アントーノフの本拠地タンボフ県のある村で、武装農民とその家族全員を銃殺。アントーノフは1922年に赤軍によって射殺され、農民反乱は鎮圧された。1921年末には700万人が餓死したと推定されている。

《チェーカー》はその後《GPU》(ゲーペーウ=国家政治保安部)と名を変え、反体制派に恐怖を植えつけていく。

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ボリシェビキの暴虐は前代未聞だった。1918年赤軍兵によって串刺しにされ吊るされたポーランド将校

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1919年キエフ。《チェーカー》の犠牲者の遺体


ソ連のスパイたち ――KGBと情報機関1917-1991年
KGBの内幕―レーニンからゴルバチョフまでの対外工作の歴史
共産主義黒書(ソ連篇)
ソヴィエト赤軍興亡史 (1) (欧州戦史シリーズ (Vol.14))