1939年、9月1日、≪ヴェアマハト(=ドイツ国防軍)≫が150万の地上軍を伴ってポーランド国境へ殺到した。ポーランド軍は一ヶ月で壊滅したが、ソ連軍は17日にウクライナとベラルーシの保護を名目に国境を超え、既に西部戦線に戦力を割かれたポーランド東部は事実上無抵抗でソ連軍に武装解除させられた。 独ソ両国の軍隊は国境線で邂逅し、兄弟のように祝杯をあげた。開戦直前に結ばれた独ソ不可侵条約では既にポーランドの分割統治が決定されていた。二つの巨大な独裁軍事国家に狙われたポーランドに生き残る術はなかった。東ポーランドはウクライナ、ベラルーシのソビエト共和国に併合されることになる。ナチス治安部隊≪ゲシュタポ≫や≪ジッヒャーハイツディーンスト(=SD)≫が占領ポーランドで≪人種の敵≫を探し回っている時に、ソ連治安部隊≪NKVD(=内務人民委員部)≫は≪階級の敵≫に襲いかかった。NKVDは14種の階級を追放のリストにあげていた。それは切手の収集家や外国を旅行したことがある人まで含めた金持ち、地主、警官、役人、法律家、実業家、政治家、聖職者・・・そしで軍の高級将校である。ヒトラーの親衛隊同様、NKVDもまた“地域社会を斬首すること”を目的に暗躍した。全部で150万(40万ぐらいという説もある)の≪階級の敵≫が家畜用貨車を数珠つなぎにした列車でカザフやシベリアの荒地まで数千マイルを輸送された。そのほとんど半数が生きて帰ることはなく死亡したと見られる。また、数万のポーランド将校が故国近くの殺戮の戦場で命を断たれた。 1940年4月、捕虜とされていた4400人のポーランド軍の将校がスモレンスク近郊のカチンの森でNKVDによって銃殺された。その事実は43年4月墓地を発掘したドイツ軍によって世界に公表され有名になった。ソ連はドイツの犯行だと否認。長らく責任の所在が不明確であったが、ソ連崩壊後、事件から半世紀以上が経過した1992年、集団殺害の最高方針はソ連内務人民委員ベリアからスターリン書記長へあてられた書簡※と、同日付の共産党政治局決定に基づいていることが明らかになり、ロシア大統領のエリツィンが公式に認め謝罪した。 ※1940年3月5日付け内務人民委員ベリアのスターリンあて書簡、極秘 同志スターリン ソ連邦のNKVDの捕虜収容所およびウクライナ西部とベラルーシの監獄には、多くの旧ポーランド将校、旧警察官と諜報担当官、多くの反革命的民族主義諸政党員、たくみに変装せる反革命反乱組織のメンバーその他、ソビエト権力の宿敵、ソビエト体制に敵意を抱くものが、現に収容されています。 カチンの森は単発の事件ではなく、ほぼ同じ時期にカリーニン近郊のオスタシェコヴァ、ハリコフ近郊のスタロベリスクなどで同様の集団処刑が実行され、犠牲者総数は25000人に上ることが判明している。処刑の目的は反ソ、反革命危険分子を抹殺することであった。ポーランド軍の将校は一切の例外なくこう扱われたのである。 1940年4月3日、捕虜の輸送がスモレンスクの収容所から開始され、列車でグネスドヴァ駅まで運ばれ、そこから刑務所の特別トラックでカチンの森へと向かう。捕虜は用意された穴のそばで殺された。多くの場合、後頭部か頚部を撃たれた。彼らは後ろ手に縄か針金で縛られ、コートを頭からかぶせられた。殺害者はドイツ製のワルサー型ピストルと口径7・56ミリの弾丸を使った。その弾丸はドイツのグスターフ・ゲンショウ社で製造されたものだった。 4月4日、NKVDはオスタシェコヴァから捕虜たちを運び出した。そこで彼らは一人ずつNKVD刑務所の特別に防音装置のついた小部屋で、後頭部を撃たれて殺害されて行った。処刑は深夜にだけ行われ、一晩で平均250人が殺害された。 4月5日スタロベリスクの捕虜が列車でハリコフへ運ばれ、NKVDの建物の地下室で銃殺された。死体は内務人民委員部管轄の立ち入り禁止区域に埋葬された。 3つの捕虜収容所からの最後の死の輸送は5月の半ばまで行われ、射殺は完璧に整然とNKVDの手によって行われた。この虐殺を生き延びたものは全体の3パーセント未満で、彼らはNKVDに諜報員ないし対ソ協力者になることを約束したものたちだった。収容所から逃亡に成功したのはただの一人もいなかった。この虐殺で刑事的責任を追求された者は誰一人としていない。 独ソにポーランドのエリートたちが虐殺されたことにより、ポーランドの復興は大きく立ち遅れることになる。 世界戦争犯罪辞典 |