第三帝国極悪伝説外伝
リトアニア編
“おいユダ公!エルサレムへの道は自由だぞ”

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“ホロコーストはリトアニアからはじまった”

このように評する識者もいる。

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1940年6月、ソビエト連邦がリトアニアへ侵攻。反ソビエト分子と指定された様々な階層の人々がソビエト連邦内務人民委員部(NKVD)によって粛清された。その数は3万人を超えると推定される。

1941年6月22日、ドイツとソ連が開戦した。
6月23日夜、リトアニアは開戦の報を受け大混乱に陥っていた。
“ドイツ人が来る!”

ほとんどの都市は既に極右組織《リトアニア行動戦線》をはじめとした過激な暴徒の手に落ちていた。ユダヤ=ボルシェビズム※のプロパガンダをたっぷり浴びたリトアニア国民は、これら過激派と協力し、撤退するソビエト軍と無防備なユダヤ人市民に襲いかかった。

※ユダヤ人と共産主義者を同一のものとする思想。ナチが長い年月をかけて丁寧に発信していた。この単純なプロパガンダは当時欧州全体をすっぽり覆っており、過激な粛清を繰り返すボリシェビキ(ロシア共産党)への憎悪がユダヤ人市民へとふりむけられる結果となった。

ナチ党のSD※1SIPO※2に扇動されたアルギルダス・クリマイティス率いるリトアニア市民と”自称愛国者”のテロ組織が、6月25日の夜からユダヤ人市民への攻撃を公然と開始した。黒幕はSDの特殊部隊である《保安警察及び保安諜報部の特別出動集団(=Einsatzgruppen)》※3のA部隊司令官、《ブリガーデフューラー(親衛隊少将)》ヴァルター・シュターレッカーである。

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ドイツ軍を歓迎する現地民

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ヴァルター・シュターレッカー
法学博士のインテリである

※1 ナチス親衛隊の諜報部
※2 国家秘密警察と刑事警察を含むRSHA(帝国保安本部)傘下の保安警察
※3 SDの特殊部隊。自動車化された処刑部隊で移動抹殺隊と呼ばれる

シュターレッカーによれば、この組織化されたポグロムで28日までに約5000人のユダヤ人と共産党員がカウナスと近郊の町で暴徒に襲われ殺害されたというが、これはおそらく誇張された数字であり、実際は1000〜3800ぐらいと考えられている。
残虐な殺し方であったという。
男も女も子供も四肢をばらばらにされており、酒に酔ったリトアニア人は犠牲者の首でサッカーをしたとも伝えられている。

ちなみにナチは住民によるユダヤ人への暴行の様子を”ボリシェビキ排除に立ち上がったリトアニア国民”という形でプロパガンダすることにし、移動抹殺隊の凶行を正当化する目的でたくさんの写真を撮っている。

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その後もリトアニアの極右組織とナチス親衛隊によるユダヤ人の粛清は徹底的に行われた。リトアニアには開戦前約20万人のユダヤ人がいたが、そのうち195000人が虐殺されたとみられる。そのほとんどは1941年末までの約半年間に行われた。移動抹殺隊の指揮官の一人、カール・イェーガー親衛隊大佐は、”リトアニアにおいてユダヤ人問題は解決した”と、《ユーデンフライ(ユダヤ人のいない世界)》の達成を報告書にまとめた(イェーガーレポート)。

処刑場として有名なのがポナリの森と第七、第九要塞である。

ポナリの森では近隣のゲットーから連れてこられたユダヤ人やソビエト兵捕虜、ポーランド人やロマ人、精神障害者が1944年の末までに最大で10万人が虐殺された。その執行機関は移動抹殺中隊9や《リトアニア保安警察》などの対独協力者部隊である。

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ポナリの森に連行される市民

第九要塞では、1941年10月、カール・イェーガー親衛隊大佐が率いる移動抹殺中隊3としかし大部分はリトアニア人の傭兵が付近のゲットーから連れてこられたユダヤ人をたったの1日で9200人虐殺。うち7000人以上は女性と子供であった。

第七要塞ではソリー・ガノールの「命のロウソク―日本人に救われたユダヤ人の手記 」に目を疑うような残酷酸鼻な光景が記されている。
一部抜粋したい。

“門をくぐった私たちの目の前に地獄図が広がった。(中略)

…2000とも3000とも思える人々が固まっていた。人々の頭上、斜面の上の回廊部には多くは私服のリトアニア人十数人があちこちに陣取っていて、下の人たちを銃で狙い撃ちにするのである。いくつもの銃口から黄色い火花が散り、至るところ青い硝煙が立ち込める。下の人々は弾丸を避けようとあちらこちらへと悲鳴をあげながら逃げ走る。死んだ者、負傷した人間がいたるところに転がっている。
それはおぞましい人間射的場そのものであり、犠牲者たちの発するうめきと叫びは実に恐ろしいもので、この光景は私の心に焼きついて離れなくなった。(中略)

…1941年7月の始めカウナスのユダヤ人住民に対して大量逮捕が行われた。10000から12000の人々が第7要塞に連れていかれた。大多数は男性だが女性と子供もかなり混じっていた。(中略)

…リトアニア人は常時酔っ払っていられるようビールとウォッカをたっぷり与えられており、それが炎暑と相まって彼らをいっそうサディスティックにしていた。
とりわけ無惨だったのは要塞の地下のバラック造りの収容室に閉じ込められた若い女の人たちの運命である。夜になると、リトアニア人たちが彼女らを集団で引き出し、レ×プした上で射殺するのだった。こうした夜が何日も何日も続いた。
あわれな彼女らはひどいパニックに陥り、リトアニア人たちが乱痴気騒ぎをやり、いちどに10人もの女性に集団レ×プを加える間に発狂してしまう人もいた。顔を汚して難を免れようとする者もいたが無駄だった。母親と娘が同時に犯される場面も多かった。(中略)

…要塞での最初の数日を生き延びた人は7、8000人いたがその後射殺され、ソ連軍捕虜たちの手で地下にうずめられた”

上記のように、現地人の残虐性はドイツ人でも裸足で逃げ出すほどのものであった。これほど急速にホロコーストが進んだ背景に、現地人のこのようなユダヤ人への激しい憎悪があったと指摘されている。

かつては「北のエルサレム」と呼ばれるほどにユダヤ人社会が栄えたリトアニア。ナチ崩壊後、ソビエト連邦時代を経てもユダヤ人の人口は回復せず、現代においてもリトアニア総人口の0.1%に過ぎない。

リトアニアにおいて、ヒトラーの野望はほぼ完璧に達せられたのである。

ホロコースト歴史地図―1918-1948

ヨーロッパ ユダヤ人の絶滅

命のロウソク―日本人に救われたユダヤ人の手記
http://en.m.wikipedia.org/wiki/Kaunas_massacre_of_October_29,_1941
http://en.m.wikipedia.org/wiki/Ninth_Fort
http://en.m.wikipedia.org/wiki/Seventh_Fort
http://ericinlithuania.wordpress.com/2011/11/03/9th-fort-the-killing-fields/

※記事タイトルは「ここはお前らの居場所ではない」という意味だそうです