第三帝国極悪伝説24 カール・ヘルマン・フランク

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カール・ヘルマン・フランク

Karl Hermann Frank
報復者

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所属:チェコ親衛隊及び警察高級指導者(HSSPF)
出身:チェコ、カールスバート
階級:SS大将(SS Obergruppenführer=オーバーグルッペンフューラー)
罪状:チェコでハイドリヒ副総督の暗殺の報復としてリディツェ村虐殺を指揮

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Horst Bohme, Hedrich and Karl Hermann Frank in Prague[1]
左:ベーム
中央:ハイドリヒ
右:フランク

チェコ軍レジスタンスによって暗殺されたライハルト・ハイドリヒの報復が始まり、いい加減な理由でプラハ郊外のリディツェ村がその報復対象として選ばれた。1942年6月9日午後7時45分、ハイドリヒの葬儀の夜、プラハのゲシュタポ地方本部長ホルスト・ベームは、HSSPF(親衛隊及び警察高級指導者)グルッペンフューラー(SS中将)、カール・ヘルマン・フランクから以下の命令を伝えられた。

1.リディツェ村の男を皆殺しにする。
2.リディツェ村の女をすべて強制収容所に送る。
3.子供もすべて集めて”ドイツ化”できるものはドイツ国内のSS家族に預け、その他のものは、別のところに送る。
4.村を焼き払い、地面まで平にする。

1942年6月9日午後10時過ぎ、この作戦に関係するドイツ軍部隊は車でリディツェ村へ向かった。すぐに現地のチェコ警察署が占領され、村は≪保安警察(=ジポ)≫によって包囲された。そして正式に命令が発せられた。

“総統命令 リディツェ村を破壊し、住民を殺すべし”

作戦は何の混乱もなく順調に推移した。

ゲシュタポやジポは住民を叩き起こし、男性を果樹園に、女性と子供を学校に連行し始めた。婦人たちは貴重品を持ってくるように言われたが、学校に着くとそれらはすべて没収された。

ゲシュタポは戸籍簿を持ってこさせ、几帳面に村のすべての男性を照合した。このようにして村には11人の行方のわからぬ男たちがいることがわかった。村長によれば彼らは夜勤で外出しており、朝には戻ってくるという。
結果、173人の男たちが果樹園そばの倉庫と納屋に集められたのであった。

ゲシュタポはガソリンの入ったドラム缶を持ってきて、小さな容器にわけて村のすべての家の中に運んだ。

10日未明、フランクがリディツェに到着し、再度命令を繰り返した。処刑部隊はそれを合図に行動を開始した。

婦人や子供達はリディツェ近くのクラドノという街に連行されて行った。男たちと暇乞いをすることも許されず、女たちを乗せたトラックが走り去ると村に火がかけられ、あっという間に火の海になった。プラハのゲシュタポ地方本部長のベームは古い教会に興味を持って、中の遺物や装飾品を略奪するよう部下に命令した。この教会の73歳のシュテムベルク神父はゲシュタポに抗議したが、殴り倒されてしまった。そのあと他の数人の隊員が神父を蹴ったり罵ったりしたのである。

女たちは散り散りに強制収容所へ送られていった。子供たちは母親から引きはがされ、SS将校が“ドイツ化”の実験を行なうモルモットとして2人の少女と1人の少年を選び出した。その他の子供たちは厳重な監視の下に教室から連れ出された。玄関には警備兵が立っていてこの無防備な子供達の行動を注意深く監視していた。子供たちはまだ小さく赤ん坊と言ってよかった。子供たちの泣き声や母親たちの救いのない絶望の声で満ちた。子供たちの心を突き刺すような叫びは恐ろしいものだった。女たちは皆取り乱し何が何だかわからなくなった。

果樹園では処刑が始まった。30人の銃殺班が3つのグループに分かれて銃殺を行った。落伍者が出た場合に備えて予備隊員も待機していた。全ては用意周到に準備されていた。

燃え上がる村を背景に村の男たちは処刑班の前に引き出された。彼らに対して何の宣告文も読み上げられなかったし、何の儀式も行われなかった。だが彼らは威厳を持って死刑執行人に対面した。

ベームは一言も口をきかずただ頷いただけであった。一斉に銃が火を吹き男たちはなぎ倒された。すぐに分隊の下士官が死体のところに歩み寄り、頭部に拳銃弾を撃ち込みとどめをさして行った。

銃殺班が弾をこめ直し、次の組が連れてこられた。死体はそのままになっており、次の10人は死体の一歩前に並ばされた。こうして50人が処刑されると銃殺班は休憩を取り、昂ぶった神経を鎮めるためにシュナップス(オランダ産の強い酒)を飲んだ。

処刑は再開された。人々はひとことも口をきかなかった。彫像のように身動き一つせずに。シュテムベルク神父が処刑される直前に、すべての人々に話しかけ、最期の祈りの言葉を与えた。それを見たドイツ兵は嘲笑して次のように言った。「老いぼれ神父はいいことをしてくれてる。奴の祈りと祝福によって男どもは羊のように大人しく処刑場へ向かう…」神父もその後撃ち殺された。

こうして処刑は終わった。10日正午には頭を撃ち抜かれ、内臓のはみ出した死体が10人1組で17列にもなって地上に横たわっていた。
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死体からは金歯が抜かれ指輪が抜き取られた。銃殺班はこの仕事が終わるとシュナップスを浴びるように飲み、グデングデンに酔っ払った。そしてリディツェ村を離れてクラドノやプラハの司令部に帰って行った。行方不明の11人もすぐ居場所を突き止められ個別に処刑された。
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テレジエーンシュタット収容所からユダヤ人の囚人が連れてこられ、穴をほらされ、死体の片付けを強制された。村を更地にすることまでが総統命令であった。それは徹底的に行われた。ドイツ労働奉仕団が村を更地にした。約8万4,000立方メートルの土とガラクタを取り除いてその後を平らに整地しなければならなかった。建物を破壊するのに陸軍やSS部隊も手伝った。それは村の野良犬を撃ち殺して一緒に埋めるほど徹底した仕事で約3週間で村は粉みじんに破壊された。
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一方、クラドノの小学校では6月12日の金曜日に婦人たちは子供たちと引き離されて収容所へ連れて行かれたがその別れは悲痛なものであった。学校の外で警備にあたっていた1人のチェコ警官はその光景を次のように描写している。

“われわれはその夜のことを決して忘れないだろう。学校の中で子供たちが母親から引き離される時恐ろしい泣き声が起こった。泣き叫ぶ子供たちは1階の教室に連れて行かれた。彼らは今父親ばかりでなく母親さえも失おうとしているのだ。まさに心を掻きむしられるような瞬間だった”

子供たちは小さな包み(戦後逮捕されたゲシュタポ隊員は子供たちが泣かないようにおもちゃとお菓子を与えたと述べた)を持ち兄さんや姉さんの手を握っていた。子供たちはどこでどうなったか戦後いろいろ調べたがわからなかった。

連れ去られたリディツェ村の203人の婦人のうち、戦後故郷に帰ることができたのはわずか143人に過ぎなかった。また連れ去られた104人の子供のうち、チェコスロバキアに帰還できたのはわずか16人(15人とも)に過ぎなかった…

元々ズデーテン地方の本屋の店主だったフランクはナチ党の躍進によって成り上がった男だった。
1946年、チェコ当局によって絞首刑に処せられた。「大虐殺 リディツェ村の惨劇」の著者ジョン・ブラッドレーは、ナチの狂気がチェコ国民に残した暴虐の記録は、フランク1人を絞首台に送ったところで消えるものではないだろう、と結んでいる。

ナチの暴政で終戦までにチェコ人7万5,000人が命を失った。
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リディツェ村跡地


大虐殺―リディツェ村の惨劇
HHhH (プラハ、1942年)