第三帝国極悪伝説23 ローラント・フライスラー

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ローラント・フライスラー

Roland Freisler

司法界の装甲師団

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所属:法務省
出身:ドイツ ツェレ
階級:民族裁判所長官
罪状:民族裁判所長官として数々の反体制派を断頭台に送った。

第三帝国民族裁判所の最高判事として君臨した男だ。民族裁判所?なんやそれ。という人がほとんどであろう。民族裁判所とは人民法廷と訳されることも多いが、要するにナチ政権にたてついた裏切り者、反逆者、その疑いのあるものをほとんど即決裁判のような簡易化されたシステム下で絞首台へピストン輸送するものである。ローラント・フライスラーはその民族裁判所の最高判事として、数々の反体制派を地獄に送った極悪人である。彼は法を自分や党に都合の良いように勝手にねじ曲げ、まさしく法廷で絶対権力を持つ神として君臨した。彼は被告をどやしつけ、大声で口汚く面罵することを好んだ。大部分の被告は既にゲシュタポに拷問されたあとだったわけで、そんなヘロヘロな状態で強烈な存在感の法廷の神とやりあえる勇者はいくらもいなかった。

だいたいが裁判は一方的なリンチのようなものとなり、弁護人も検察も他の裁判官も、もはやいるだけで特にやることはなかった。結果は死刑だとわかりきっていたし、他の判決が下されることはごくごく稀であった。敗戦が濃厚となってくると、裏切り者を殺そうというローラントの執念は激しさをまして行き、どうせ死刑なんだから裁判の手続きをもっともっと簡易化しようという流れは終戦まで続いた。もはやドイツ司法界は第三帝国の粛清装置として利用されるままに堕していったのである。

フライスラーは自分が法をねじ曲げていると知っていたし、はっきりとした悪意を持って裏切り者に死刑を下した。司法の役割は真実を明らかにすることであるはずだが、ローラントの目的は真実をひたすら隠蔽し、真実を語ろうとする者の口を封じることであった。「我々は国内の前線にて戦っている。我々は司法界の戦車師団である。」

次々現れる国内の敵を≪総統=フューラー≫≪民族=フォルク≫の名の下に亡き者とする。それがローラントの国家社会主義に対する忠誠であり、総統に対するご奉公であった。彼は自らが司法界の外道であると熟知した上で、国家社会主義のために悪行を重ねたのである。それが最終的勝利へつながる、そう信じていたのである。

ローラントは優秀な男だったという。学校の成績は常にトップクラス。第一次世界大戦に出征し、ロシアの捕虜となった。ロシアの刑務所でロシア革命を経験した。彼はうまく立ち回り、刑務所内で食料が優遇されていた。それをもって、フライスラーはアカだという噂が立ち、終生彼につきまとう。フライスラーは努力したが、これを払拭することはついにできなかった。

彼はドイツに戻って28歳で法学博士となった。弁護士として働いたが、ナチ党の掲げる「背後のひと突き」説に深く共感したという。”国内の裏切り者によって偉大なるドイツは負けた” 彼はそう信じるようになる。

ナチ党に入党し、お抱えの弁護士として働く。メキメキ昇進し、法務次官にまで出世する。だが、彼の強烈な上昇志向と無愛想で気まぐれな演技がかった性格は多数の敵を作った。

特にヒムラーやゲーリング、ボルマンといった取り巻きの面々にはかなり嫌われていたようで、唯一の味方はゲッベルスだけであったが、致命的なことには≪総統≫にも”あの元ボリシェヴィキ”と嫌われていたのである。法務大臣の地位は民族裁判所長官のゲオルク・ティーラックの手に渡った。

ティーラックの空いた穴をフライスラーが埋めた。これは皮肉にもフライスラーにとっては最高の人事であった。彼のよく動く口と法を堂々と捻じ曲げるずうずうしさ、元ボリシェヴィキとの悪名を払拭するための格好の舞台、どう考えてもフライスラーが適任だったのである。この決定には≪総統≫ が直接関わったとされている。

時は1941年12月、ヒトラーが≪夜と霧≫指令を発した頃である。党や国家、戦争に後ろ向きな発言をしたものは、夜と霧の中で滅してしまえ。政府は本格的に内なる敵=裏切り者を血眼になって探し始めた。”おかしなこと”を言う前に即刻排除するために。これ以降、”反逆者”たちは夜と霧の中に葬られ、あとかたもなく消え去った。SDの極秘文書の中に、“Nacht Und Nebel”の文字がでてくることがあるという。しかし、彼らがどこに消えたのか、未だにそのプロセスは未解明である。

裏切り者を断首する。この仕事にフライスラーは没頭した。特に共産主義者を叩きのめすことを好んだ。彼にとって元ボリシェヴィキの悪名をそそぐ最高のチャンスに思えたからである。

白バラ抵抗運動でも最高判事を務めた。ショル兄妹やその仲間たちもいつものように当然死刑になった。刑はすぐ執行されるようになった。
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白バラ抵抗運動 ショル兄妹

数々の敵を断頭台に送り込んだフライスラーも、戦争末期になるとナチの勝利を疑うようになる。しかしフライスラーは長いこと典型的日和見主義と見られていた汚名をそそぐかのごとく、ますます反体制派への死刑判決を乱発するようになる。もはや大義などどこ掘ってもカケラもなかった。フライスラー自身もそれをよく知っていた。全ては戦争に勝つため。第一次世界大戦の屈辱を繰り返さないこと。それだけであった。

1944年7月20日、ヒトラー総統の暗殺未遂事件がおき、首謀者、関係者はのきなみ死刑となった。ヒトラーは国民に対し、国防軍の大々的な反逆として演出することを好まなかった。一部の狂信者の偶発的な反抗ということにしたかった。だが、フライスラーはことを大げさに演出し、ヒトラーの意図とは真逆の裁判を行った。だが、反逆者を根だやしにすることを望んだヒトラーはフライスラーの仕事に期待したと言われる。「フライスラーならうまくやってくれるだろう。彼は我々のヴィシンスキー※なのだから。」

※アンドレイ・ヴィシンスキー
スターリン時代の検察官で、元メンシェヴィキ党員だった過去を気に病み粛清の恐怖に怯え、反体制派を口汚く罵りながら常に銃殺を求刑したといわれる。
”7月20日事件”の公判の模様は「ワルキューレ」で描かれている。

フライスラーは被告を罵倒し、徹底的に叩き伏せるつもりだった。その裁判の様子が録画された。しかし、フライスラーの罵倒はあまりにも口汚く、人々を不快にさせるほど声が大きく、品位のカケラすらなかったのである。
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一方、反乱将校たちの法廷での態度は堂々として誇り高いものだった。ある反乱将校は、「貴様はもうすぐ地獄行だ!」と狂ったように絶叫するフライスラーに向かってこう返した。「あとからいらっしゃるのを楽しみにしております。裁判長殿!」

“逆の効果”をもたらしてしまう、と録画の公開はさしどめとなった。これはヒムラーが直接≪総統≫に申告した。そしてヒトラーもそのことに同意した。ヒトラーにそう言わしめるほど、フライスラーの裁判は野蛮で下品なものだった。

しかし終わりは急にやってきた。1945年2月、米軍のベルリン空襲によって、フライスラーも爆弾の破片を浴びてあっさり死んだのである。死亡を確認した医師はフライスラーに死刑判決を受けた者の家族であった。彼の死を悼む者はほとんどいなかった。だが、フライスラーの妻は戦後西ドイツ政府に対して遺族年金を受け取るための訴訟を起こした。訴えは認められ、妻に遺族年金が支給された。フライスラーによって死刑になったものたちの家族はほとんど誰も、遺族年金など受け取っていないというのに。

ローラントが死刑判決を下した件数ははっきりとわかっていないが、1943年の上半期だけで800件をこえていたという数字がある。また、裁判なしで”夜と霧”の中に葬られた人々の数はよくわかっていない。

第三帝国の粛清装置として機能した裁判所。その裁判官たちの三分の一は、戦後も裁判官を継続したという。フライスラーも「戦死」しなければ裁判官を続けたのかも…。


ヒトラーの共犯者
http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/biography/freisler.html

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