第三帝国極悪伝説21
オットー・オーレンドルフ

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オットー・オーレンドルフ

Otto Ohlendorf

心優しき虐殺者

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所属:SD、アインザッツグルッペD隊司令官、後に帝国保安本部第Ⅲ局局長
出身:ドイツ、ハノーファー
階級:SS中将(SS Gruppenführer =グルッペンフューラー)
罪状:アインザッツグルッペD隊司令官として91000人のパルチザン、ユダヤ人、コミュニスト、ロマ・シンティ、その他多くの無辜の殺戮に責任を負う。

1907年生まれ。ナチ党が権力を掌握する前から活動していた古参闘士であり、経済学や法学を専門とするインテリである。
《保安警察及び保安諜報部の特別出動集団(=Einsatzgruppen)》のD隊の司令官として91000人の殺戮に責任を負う超大物戦犯である。

彼の移動抹殺隊の活動地域は独ソ戦開始後の1941年6月以降、第11軍作戦領域(南方軍集団、軍司令官はオイゲン・フォン・ショーベルト、のちにエーリッヒ・フォン・マンシュタイン)を主とし、南ウクライナ(最北はチェルノヴィッツ、南はロストフとクリミアに至る地域)である。
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元々、上司の《帝国保安本部(RSHA)》長官、ラインハルト・ハイドリヒによってオーレンドルフは「兵士の厳しさと政治的明確さが欠けている非兵士的な軟弱知識人」と見られていた。ハイドリヒとその上司ヒムラー「口だけの頭でっかちのインテリ畜生」が大嫌いで、これらSD内の非行動的知識人を血塗られた殺戮任務へ送り込むことで、ナチズムへの無条件の忠誠を強い、彼らが自分たちの反対派となる可能性を奪い、自分たちの忠実な道具にすることを意図していた。

アインザッツグルッペは事実上の懲罰部隊とみる向きもあり、ヒムラーやハイドリヒといった親衛隊の巨頭に睨まれたSDの知識人が多数指揮官として《オストアインザッツ=東部出動》へ追い込まれていた。

オーレンドルフはハイドリヒによって《オストアインザッツ》の命令を受けたが、これを退けた。二度目の命令をも退けた。だが三度目の命令は避け難く、受けざるを得なかったとされている。

以上のように、オーレンドルフもこの殺戮任務に乗り気でない上、この人類史上最悪の殺戮作戦が祖国ドイツに及ぼす倫理的影響を危惧した。上司のハイドリヒやヒムラーにこの件で抗議も行ったが受け流されただけだった。《オストアインザッツ》に責任を負うのはただ一人、首相であり国家と民族の《総統》アドルフ・ヒトラーただ一人である。ヒムラーはそう訓示した。

D隊の当初の任務はAOK11(第11軍総司令部)領域の保安を脅かすあらゆる勢力の撃滅と軍主力の背後を守ることであり、ユダヤ人の絶滅は任務に含まれていなかった。しかしその他のアインザッツグルッペ別部隊と同じく(特別行動隊Dは550人で最小だった。)、上層部からユダヤ人絶滅命令をくだされた1941年8月以降、ユダヤ人コミュニティーの組織的壊滅作戦が大規模に広がっていた。第11軍もスパイやゲリラの掃討にアインザッツグルッペD隊をおおいに活用したと言われている。
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一方でオーレンドルフは作戦領域の各コミュニティーに労働の対価としての賃金、ある程度の自治、宗教の自由、コルホーズの収穫の20%の権利を認めるなどし、住民を味方につけた。パルチザン活動も最低限であったという。

結局嫌々だったかもしれないが、最終的にオーレンドルフは揺るぎない確信的ナチとして「何ら生きる権利を持たないものを絶滅すること」に順応した。オーレンドルフは敵を憎むことなく激情することなくひたすらナチ・イデオロギーの冷静な遂行者として行動した。彼と彼の部隊はひたむきに粛々と”敵”を根絶した。

ただ、オーレンドルフは処刑のやり方にのみ部下に注文をつけた。彼は「不幸な犠牲者になるべく恐怖と痛みを与えないよう処理すること」を望んだ。人々が粗暴になり叫び声をあげることがないように。彼は特殊部隊の個別行動を禁止し、虐待を避けることを厳命し、犠牲者の衣服を脱がせることを禁止した。略奪や領有をも禁じた。処刑は軍隊式に執行され、不要な流血と暴力と混乱を避け、仲間内で罪悪感を共有することでこの呪われた任務を乗り越えようとした。
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同じ理由で《ガス室》の前段階として各出動集団に導入された《一酸化炭素ガス有蓋車》の使用にも消極的であった。ガス有蓋車は直接手を下す必要はないかもしれないが、犠牲者が死ぬまでに時間がかかり、加えて断末魔の悲鳴を聴かないわけにはゆかず、あとには汚物にまみれた苦悶の表情の死体の山を片付けなければならない。しかもしばしば死に損なった人々が急に動く、ということがあり、隊員の精神的負担は計り知れない。オーレンドルフは処刑はあくまで軍隊式に行うことを是としたという。
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オーレンドルフの移動抹殺隊は独ソ戦最初の2ヶ月で4400人を殺し、続く41年8月半ばから9月半ばまでの間にその数は倍になり、9月後半から2週間で22500人を殺し、1942年3月までに91000人を殺戮した。
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1942年7月、ハイドリヒが暗殺されるとすぐにオーレンドルフはドイツへ戻った。そこで待っていたのは帝国保安本部第Ⅲ局国内諜報部門のトップという華々しいポストであった。ヒムラーも手の平を返したようにオーレンドルフを重用し、SS少将へ昇進させた。後に経済省の官僚になる。

オーレンドルフは1945年5月23日に連合軍に逮捕され、アインザッツグルッペの司令官では唯一裁判で裁かれた。彼はヒムラーやハイドリヒとは一線を画し、犠牲者の苦しみを減じようと努力した”心優しい虐殺者”として有名になった。彼は裁判でハイドリヒやヒムラーに嫌われていたことを強調し(実際自己弁護のためとみられ、真偽は疑わしい)、《オストアインザッツ》は軍隊としての命令であり、自分には逆らう権限がなかった、同じく軍隊として命令と秩序の中で処刑を実施したにすぎない、ユダヤ人絶滅を企図したことは一度もない、とこう主張した。人々の目にはオーレンドルフが知的な高い教育を受けた才能豊かな人間にうつった。それは裁判を傍聴した女性たちが、彼の風貌と態度に深く感動し、独房に花を届けたほどであった。彼女たちはオーレンドルフが90000人以上も虐殺した部隊を指揮したことを知りながらこのような行動に出たのである。

だが、司法は正しく彼を裁いた。オーレンドルフは48年に死刑判決を受け、51年にランツベルクで処刑された。享年44歳。


秘密警察ゲシュタポ
髑髏の結社 SSの歴史 上下
ナチ親衛隊知識人の肖像
ナチスの知識人部隊
ヒトラーの親衛隊
The Field Men: The Ss Officers Who Led the Einsatzkommandos
http://www.holocaustresearchproject.org/einsatz/ohlendorf.html
http://www.facinghistory.org/nuremberg-remembered-biography-otto-ohlendorf

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