第三帝国極悪伝説20 オスカル・ディルレヴァンガー

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オスカル・ディルレヴァンガー

Oskar Dirlewanger

犯罪者旅団のボス

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所属:SS第36装甲擲弾兵師団
出身:バイエルン、ヴュルツブルク
階級:SS上級大佐(SS-Oberführer=オーバーフューラー)
罪状:ワルシャワ蜂起の際の住民の無差別虐殺、未成年への猥褻行為

ドクトル・ディルレヴァンガー。あまりに存在そのものが”汚れ”であるため、有名人なのに戦争映画では見かけたことがない極悪SS隊員である。ジョナサン・リテルの「慈しみの女神たち」ではやはりホンの少し登場している。といっても汚職親衛隊ハンターのモルゲン判事の回想の中のみであるが。その部分を抜粋してみよう。

「私は別の男との間で厄介事を抱え込んだ。それは収容所の将校ではなく、《武装SS》のディルレヴァンガーという人物だ。猛々しい狂人で、恩赦された犯罪者と密猟者の部隊を率いている。私は1941年に彼が仲間と、総督府で科学実験と称するものを行っているとの情報を得た。それは彼が少女たちをストリキニーネ(毒薬)で毒殺し、煙草をくゆらせながらその断末魔を見つめていたというものだ。だが、私が追求しようとした矢先に、彼と部隊はベラルーシに配置替えになった。奴がSS上層部の庇護を得ていることは貴官に請けあえる・・」といった具合だ。どうしようもねえ・・。彼はサディストの上、戦争犯罪をやっては上層部のコネで助けられていたという人物なのです。特にゴットロープ・ベルガーSS中将と仲が良かったと言われています。

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左端の人物がディルレヴァンガー

1895年ヴュルツブルクで出生。第一次大戦には従軍し、何度も負傷しながら少尉にまで昇進した。戦後も義勇軍に所属し、SSに入隊。政治学の博士号も取得。しかし1934年、13歳の少女に性的暴行を加えた罪を問われ、取得したそれまでの全ての経歴と博士号をも失った。刑務所から出たあとは強制収容所で勤務し、ここでベルガーと知り合う。ベルガーはSS内の補給本部長の地位を利用してディルレヴァンガーをスペインのコンドル軍団に派遣した。そうしてSS内の地位を回復できるようにしたのである。スペイン内戦での戦闘と負傷は少なからずディルレヴァンガーの名誉を回復させた。

1940年には《総統》の意志により、銃を使った密猟者で構成された部隊の編成が行われる。その部隊長に選ばれたのはベルガーとのコネがあったディルレヴァンガーである。ヒムラーはこれら密猟者に加え、強制収容所の悪党・犯罪者、SS内部の保護観察者(=危険人物)をも加えて「SS-Sonderkommando Dirlewanger(SS特務部隊ディルレヴァンガー)」が結成された。創設時のディルレヴァンガーの階級はハウプトシュトゥルムフューラー(SS大尉)である。

ディルレヴァンガー部隊の任務は主に、ポーランドやベラルーシのパルチザン狩りだったが、この野獣のような部隊があらわれたところはどこでも、略奪・レ×プ・背徳行為が大がかりに行われた。

既にSS内部でも不評を買っていた1941年9月、仕事ぶりを認められ、親衛隊及び警察高級指導者(HSSPF)オーバーグルッペンフューラー(SS大将)、ヴィルヘルム・クリューガーとルブリン管区の親衛隊及び警察指導者(SSPF)オデイロ・グロボチュニクの推挙を受けてシュトゥルムバンフューラー(SS少佐)に昇進する。これは彼がホロコーストに関与していたことを意味する。ルブリン管区のユダヤ人収容所の防衛任務に一時的に従事していたらしい。
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ヴィルヘルム・クリューガー。この人も十分すぎるほどの極悪人である。
ポーランドにおけるホロコーストに深く関与した。

だがサドのディルレヴァンガーはポーランド民間人に対する虐待、ユダヤ人との性行為及び殺害の疑惑が浮上し、これに対しモルゲン判事は十分な証拠をかき集めて提出。クリューガーの逆鱗に触れる。「もしこの犯罪一味が一週間以内にこの地域から消え失せないなら、おれの手で奴らを監獄にぶち込んでやる!」と脅したのでディルレヴァンガーはソ連地区へ移動することになった。ディルレヴァンガー隊がどこにいたのかはその恐るべき蛮行で正確に知れた。しかしベルガーは彼の犯罪をことごとく握りつぶしてしまった。ディルレヴァンガーは対パルチザン戦では明らかに有能だったからである。

だが長い戦いで恐るべき損害を受けて、じきに本物の密猟者はいなくなってしまったそうだ。補充兵は犯罪者やウクライナ人傭兵である。1942年にはミンスク近郊でパルチザン掃討を行った。部隊は犯罪を犯しつつも戦果を挙げ、ディルレヴァンガーは第2級鉄十字章を授与される。7月にも掃討作戦に参加し、ディルレヴァンガー本人も負傷したため勲章を受けている。1943年にはペリク湖周辺でのパルチザン掃討作戦で15000人のパルチザンの殺害を報告したが、捕獲したパルチザン側のライフルはわずかに1100梃であった。多数の民間人殺害が推測されている。だが1943年12月にはドイツ黄金十字章を授与されている。

1944年夏、ワルシャワで反乱の火の手が上がった時、ディルレヴァンガー隊は旅団規模にまで拡大されており、そのほとんどは犯罪者や元ソ連軍兵士、ウクライナ人、民族ドイツ人であった。部隊はライネファルトSS中将の指揮の下、ボラ地区の進撃に加わった。ディルレヴァンガー旅団はカミンスキーの旅団と共にボラ地区を徹底的に血の海に沈めた。《総統》と《親衛隊全国指導者(=ヒムラー)》のお墨付きを得たと、略奪と虐殺と放火にはげんだのである。

ボラ地区の通りを一つ占領するたびにその周辺の建物から住民を「避難させる」と誘い出し、広場に追い立てて機関銃で皆殺しにしたのである。これらの住民たちはどちらかといえばワルシャワ蜂起に参加せず中立を保っていた市民たちだったのに。ディルレヴァンガー旅団の通った後には誰一人動く者はいなかった。老人も婦人も子供も皆殺しにされて死体は山と積まれた。そしてそれらにガソリンぶっかけて火をつけたのだ。虐殺のあとは爆破した建物で埋めた。

病院も襲われ負傷者、病人、看護婦、医者や助手など全て射殺された。このような残虐行為に対して、国防軍とSS内部双方から非難の声が殺到し、兄弟分のカミンスキー旅団は旅団長の処刑によって戦場から引き上げさせられたがディルレヴァンガー旅団は違った。特別むちゃくちゃ強かったというほどでもないが、ディルレヴァンガー旅団はカミンスキー旅団よりはマシな働きをしていた。というのもディルレヴァンガーは常々部下に「もしお前たちが退却するか敗北すれば、この教化部隊から強制収容所へ逆戻りだ。もし捕虜になればポーランド側はおまえたちを必ず射殺する」と言って聞かせていた。※

※ドイツ側が捕虜になった場合、ポーランド国内軍は捕虜の人種を問わず処刑したり虐待を加えていた。これは事実である。ディルレヴァンガー旅団は進むも地獄、引くも地獄のリアル拳王軍状態だったと言える。恐怖によって統率されていた部隊だったのだ。ディルレヴァンガー自身腕利きの護衛に常に身を守らせ、かなり恐ろしい司令官だったそうである。旅団は損害を意に介さず死に物狂いで戦った。
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これらの事情に加えディルレヴァンガー旅団の抜けた穴を埋める部隊は手元になかった。よってそのまま戦い続けることになったのである。旅団はすさまじく損耗したが戦果は大したことなかったそうだ。だがワルシャワはじきに制圧され、ディルレヴァンガーはSS上級大佐に昇進した。

旅団は直後に起こったスロヴァキアの反乱鎮圧にも参加し、そこでも暴行・略奪が相次いだ。

その後は割と真面目に戦うのだが、その代わり損耗も一段と激しくなり、1945年2月にディルレヴァンガーは重傷を負い戦線を離脱。1945年6月7日にポーランド軍に射殺されたと言われている。だがディルレヴァンガーには生存説が有り、エジプトのナセル将軍の軍事顧問をしているという噂が流れたが後に否定されている。


http://www.hitlerschildren.com/article/930-get-to-know-oskar-dirlewanger
http://www.holocaustresearchproject.org/einsatz/dirlewanger.html
ワルシャワ反乱 見殺しのレジスタンス

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