第三帝国極悪伝説18 第101警察予備大隊 その③

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第101警察予備大隊の犯罪

その③

~血にまみれた花嫁~

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トレブリンカ絶滅収容所…この悪名高い殺人工場は101警察予備大隊の本部があったラジニからさらに北へ110キロメートルのところに位置していた。

1942年7月22日、ワルシャワからこの収容所への最初の移送がはじまり、以降は収容所の処理能力限界点まで稼働させられていたが、“ラインハルト作戦”の総責任者であり《ライヒスフューラー》の腹心、《親衛隊及び警察指導者(SSPF)》、オディロ・グロボチュニクはルブリン管区のユダヤ人もトレブリンカ絶滅収容所へ移送することを決定した。ここでその実行部隊として経験を積み優れた死刑執行人と化していた第101警察予備大隊が再度選ばれた。

大隊の守備範囲はラジニ郡内のパルチェフ、ミェンジジェツのユダヤ人たち。彼らが最初の標的とされたのだ。

ウォマジーでの虐殺の日からわずか二日後、パルチェフで大隊はユダヤ人を捜索し、駅まで行進できない老人、病人、子どもをその場で銃殺し、5000人のユダヤ人をトレブリンカへ移送した。

たった数日でウォマジーやユゼフフでの作戦よりはるかに多数の人々を地獄の釜の中に放り込んだにも関わらず、隊員たちは心を乱されることはなかった。移送しただけだから。”視界の外は思考の外” これは本当であった。警官たちの中では作戦自体も比較的平穏に済んだという記憶しかないという。

さらに1942年8月25日から26日にかけて11000人のユダヤ人がミェンジジェツからトレブリンカへ強制移送された。

この作戦で第101警察予備大隊の各中隊、小隊を率いたのはユリウス・ヴォーラウフ大尉である。ヴォーラウフは1913年生まれ、1933年にナチ党と突撃隊(SA)に加入。1936年に親衛隊に入隊し、同年警察将校訓練養成過程に入った。1938年ヴォーラウフは警察少尉となり、42年に第101警察予備大隊に配属された。大隊がポーランドに派遣される直前の42年6月、大尉に昇格。彼は第一中隊を指揮し、大隊長トラップ少佐を補佐する大隊司令官代理を務めた。彼は熱狂的ナチスで、ヒムラーやハイドリヒが理想とした青年SS隊員であった。
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ヴォーラウフ大尉

ヴォーラウフは新婚で、信じがたいことだが彼の花嫁を任務に連れて来ていた。そして理解しがたいことだが、その花嫁に自分の血塗られた任務を見せようと、軍用トラックの助手席に乗せて、任務の最前線まで連れて来たのである!夏の暑い日であったため、コートを脱いだドレス姿の花嫁の姿が幾人にも目撃されている。花嫁はハネムーンとして夫の任務についてきたのだ。若い二人は一時も離れることを好まず、ロマンスに夢中だったのだ。

ヴォーラウフは若く活発、精力的だが、自分勝手で規律を欠いており、鼻持ちならない自信家で自惚れやだった。悪い意味でそんな彼についたアダ名は”小ロンメル”。ヴォーラウフが”民族の宿敵”と戦う姿を愛する花嫁に見せたがったのは、熱狂的ナチスにとってユダヤの浄化作業が必ずしも忌み嫌われた任務ではなかったことをうかがわせる。

さて、ヴォーラウフとその花嫁がミェンジジェツに到着した時、作戦はすでに始められていた。《トラヴニキの対独協力者部隊》(多くはウクライナ人)と《ジッヒャーハイツポリツァイ(SIPO=保安警察)》がユダヤ人の狩り集めを開始し、ほどなくして銃声や悲鳴が聞こえてきた。

ヴォーラウフの部隊にはいつも通りの命令が下された。すなわち、逃げようとするもの、駅まで行進できない病人、老人、弱者は射殺されていった。

SIPOの将校はいつも通りに泥酔し、対独協力者部隊も同様であった。彼らはやたらと乱射を繰り返していたので、警官たちは何度も撃たれないようにユダヤ人たちを隠してやらねばならなかった。通りや家のいたるところでユダヤ人は射殺されていた。

夏の暑い日であり、多くのユダヤ人が熱波にやられて失神したり倒れたりしていた。それに加えて鞭で打たれたり、射殺されたりしていたのだからたまったものではない。ヴォーラウフの花嫁は至近距離で出来事を観察していたという。

狩り集めが終わると駅までの行進が開始され、対独協力者部隊と警官の全員が、数千人のユダヤ人をルートにそって追い立てる役についた。射殺が平然と行われ、射殺されたものは道の端に投げ捨てられた。死体の列が通りから駅までつながった。
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それぞれの車両に120〜140人のユダヤ人を乗り込ませている間、兵隊たちは鞭や銃を使った。それは恐ろしい光景で、哀れなユダヤ人たちからはこの世のものとは思えない泣き声が上がった。
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貨車に詰め込まれるユダヤ人。警察将校が手に鞭を持っている。

移送用貨物列車の編成は恐ろしく長く、後ろのほうは全く見えないほどだった。50〜60両ぐらいではないかと推測された。乗車が終わると扉は閉められ、釘で止められた。…

1942年のミェンジジェツの移送は、第101警察予備大隊が”最終的解決”に関与した期間に実行した移送作戦のうち、最も規模の大きなものだった。パルチェフでは静かに済んだ移送も、ミェンジジェツではそうはいかなかった。それはパルチェフの場合より、移送対象者が倍にも及んだことに加え、作戦の執行者の数は変わらなかったからである。人力の点でプレッシャーを感じれば感じるほど、兵隊たちは残忍に暴力を行使して秩序を回復させようとしたのであった。

以降もミェンジジェツゲットーは1943年まで断続的に解体されていった。5月、最後の移送の日、広場ではユダヤ人の祈りや泣き声で満ちていた。ドイツ人は苛立っていた。対独協力者はライフルの銃床でユダヤ人を殴りつけた。保安部の隊員は鞭を手にしていた。その日、ドイツ人は信じられないぐらいに残虐であり、しかもその残虐行為は気まぐれで無秩序だった。時にはサディスティックなスポーツにも似たものとなった。中央広場で何時間もうずくまっていたユダヤ人たちは嘲られ、罵られた。さらにドイツ人の中にはリンゴを投げ上げ、それが当たったものは誰であれ殺すというゲームを実施した者もいた。このゲームは空になった酒瓶でも行われ、投げてそれが当たったユダヤ人は誰であれ群衆から引きずり出され、笑われながら耐え難いほど殴打された。こうして叩きのめされたものの中には射殺されたものもいた。彼らは暴力と殺戮を楽しんでいたのである。


普通の人びと―ホロコーストと第101警察予備大隊
普通のドイツ人とホロコースト―ヒトラーの自発的死刑執行人たち
ヒトラーの親衛隊
http://resources.ushmm.org/inquery/uia_doc.php/photos/12415?hr=null
http://www1.uni-hamburg.de/rz3a035//police101.html
http://www.holocaustresearchproject.org/einsatz/polbat101.html

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