第三帝国極悪伝説10 ヴィルヘルム・モーンケ

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ヴィルヘルム・モーンケ

Wilhelm Mohnke

ベルリン攻防戦の猛将

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所属:武装親衛隊、第1SS装甲師団、第12SS装甲師団、モーンケ戦闘団
出身:ドイツ、リューベック
階級:SS少将(SS Brigadeführer=ブリガーデフューラー)
罪状:各戦線で捕虜虐殺事件に責任を負う。

映画、「ヒトラー最期の12日間」において、民間人に配慮を見せる誇り高き軍人として描写されているヴィルヘルム・モーンケSS-ブリガーデフューラーだが、初期SSのエリート部隊「SS司令部衛兵班ベルリン」の117名の隊員の一人に選抜された、精鋭のSS隊員である。以来東部戦線、西部戦線を問わず常に激戦区に投入され、幾度も負傷しては戦線に復帰していた。精鋭部隊を率いて数々の武勇を馳せるが、その戦争犯罪も派手だった。粗暴でかなり狂信的なナチスと言われ、捕虜を残さぬことを信条としていたという。武装SS隊員が捕虜を簡単に殺してしまうのはモーンケに限った話ではないが、その獰猛さゆえに部下にも恐れられていたといわれる。

1911年3月15日、ドイツ、リューベックで出生。家具職人の家庭で生まれ、モーンケ本人も父と同じく職人を志し、ガラスや磁器製品の工房で修行をした後経営にも携わるようになるが、ナチ党の掲げる政治理念に共鳴して31年ナチ党へ入党。すぐに親衛隊(SS)に入隊し勤務態度良好な彼はSSのエリート117人の中に選抜される。
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33年当時のモーンケ

その後「SS司令部衛兵班ベルリン」が拡張・強化された部隊「SSアドルフ・ヒトラー親衛旗連隊」(LAH)の第5中隊長に任官し39年のポーランド戦ではウッジ方面への進撃作戦に従事した。

40年の西方電撃戦の際、5月28日にダンケルク付近のヴォルムフートでLAH連隊によって80名の英軍捕虜虐殺事件が起こる。

「悪夢のようだった」と生存者の一人チャーリー・デイリーは語る。
多数の負傷者を含む英軍捕虜100名が納屋に押し込まれていた。英軍将校がこの不適切な待遇に抗議すると、SS隊員の一人がこんな罵言を返した。「貴様らがこれから行く場所には全員に十分な場所があるさ」
目撃者のリチャード・バリーはその時のことをこう記憶している。「それから突然納屋の中に手榴弾が飛んできた。全部で5発だ。私は小屋の裂け目から外へ這い出した」生存者は外へ追い立てられた。そこで、SSの銃口が火をふいた。80名を超えるイギリス軍兵士が無残にも殺害された。
これはモーンケの独断によって行われたとされる。
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ゼップ・ディートリッヒSS上級大将と握手するモーンケ

41年にはバルカン諸国へ転戦しそこで負傷。片足を失い戦線から後退。武装SSの戦力の再編成に尽力する。戦線復帰後の43年にはSS-オーバーシュトゥルムバンフューラ(SS中佐)へ昇進し、第12SS装甲師団「ヒトラー青年団」の第26装甲擲弾兵連隊連隊長へ任官する。

44年6月、連隊は連合軍のノルマンディ上陸作戦の防御作戦に従事し、熾烈な防御戦闘を繰り広げて、オルヌ川下流の前線を8月まで保持することに成功した。しかしそこでまたもやモーンケ指揮下の部隊がカナダ兵捕虜35名を虐殺。

44年8月20日にはLAH師団の師団長に就任。セーヌ川流域で退却戦を指揮しドイツ本国へ撤退した。

同年12月16日にアルデンヌで開始された大反攻「ラインの守り作戦」(バルジの戦い)では第1SS装甲師団は第6SS装甲軍麾下でアンブレーヴ川流域の突破作戦を行った。そこでも指揮下の部隊がマルメディの虐殺を引き起こした。殺された米兵捕虜72名のうち40名が至近から頭を撃たれて殺されていたという。

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雪の中に転がる米兵の遺体
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モーンケはその後またしても負傷し、師団長を離職。ベルリンの総統官邸勤務に転任した。そして1945年4月にソ連軍がベルリン大攻勢を始めると、モーンケは4月22日付けでベルリン中心部の帝国官房及び周辺部の守備隊司令官に任命された。モーンケは実質9個大隊のSS残存兵を率いてベルリン市内の中心部で奮戦したが弾薬尽き果て5月8日にソ連軍へと投降した。

モーンケは数々の戦争犯罪に証拠がないと訴追を免れ、1955年に10年間の刑期を終え釈放された。ハンブルクで自動車販売業を営み、2001年に死去。享年90歳。

数々の虐殺事件に責任を負うが、モーンケが命令を下したのか下していないのかははっきりしていない事例も多い。戦争中に起こったこのような虐殺事件では戦闘中の突発的な事件か、計画的な事件かは立証することは困難を極め、責任者を処罰することは極めて難しいとされている。捕虜は殺すべきとの思想は武装SS内に広く流布しており、モーンケだけが特別極悪人だったわけではない。しかし彼の指揮下の部隊が数々の武勲と共にこのような残虐な犯罪を犯したことを忘れてよいということにはならない。

モーンケは武装親衛隊の歴史をつぶさに見てきた歴戦の古参兵だ。幾度も負傷しその度復帰し戦い続け、ベルリン最期の戦いでも指揮官をつとめた猛将でもある。足を失い耳を潰されモルヒネ中毒に苦しみながら、何度も前線へ赴き命のやり取りをした彼の価値観は平時の我々には計り知れないものがあり、敵は問答無用に殲滅すべしという態度は、根付いて当然だったのかもしれない。のんべんだらりと平時を生きる我々がこのような戦士中の戦士を断罪することがふさわしいかどうかは未だわからない。勇猛さと残虐性は紙一重ということか。


武装SS全史Ⅱ
ヒトラーの親衛隊
ドイツ軍名将列伝
http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=28736784

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