第三帝国極悪伝説09 フリッツ・クノッホライン

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フリッツ・クノッホライン

Fritz Knöchlein

髑髏部隊出身のSS将校

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所属:SS第3装甲師団「髑髏」、第2SS髑髏連隊「ブランデンブルク」、第1大隊、第14中隊。後に第16SS装甲擲弾兵師団「SS全国指導者」に所属。
出身:ドイツ、ミュンヘン
階級:SS中佐(SS-Obersturmbannführer=オーバーシュトゥルムバンフューラー)
罪状:西方電撃戦の際に捕虜にした英軍「ロイヤルノーフォーク」連隊の隊員97名を虐殺

SSには髑髏部隊という強制収容所の監視部隊がいた。ボスはテオドール・アイケSS大将で、軍隊が大嫌いのアイケは髑髏部隊の隊員に独特の規律を叩き込んだという。ドイツの最初の強制収容所はダッハウだが、髑髏部隊は最初たった100人ちょっとの規模でしかなかった。しかし強制収容所が全国に展開していくとその監視部隊も自然の流れとして増員していった。

1940年の西方電撃戦の際には5個連隊にまで規模が膨らんでいた。そして髑髏部隊は国内の治安維持をする警察という当初の性質に加え、準陸軍組織としての性質を加味した武装親衛隊の一員となっていく。

だが髑髏部隊は実に独特の組織であった。ただの警察でもなかったし、軍隊として軍人精神を叩き込まれたわけでもない。髑髏部隊はナチ党に反抗する「内部の敵」と戦う兵士としての態度を求められ、敵に対する寛容さは弱さの印であるという信念を徹底的に叩き込まれていたのである。

フリッツ・クノッホラインは1911年ドイツ、ミュンヘンで出生。そんな非情な掟に縛られた髑髏部隊の第2SS髑髏連隊「ブランデンブルク」隷下の第14中隊長として西方電撃戦に参加した。
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1940年5月27日、主力からはぐれた遠征英軍「ロイヤルノーフォーク」連隊の一部とクノッホラインの中隊との間で戦闘が起きる。ラパラディと呼ばれる地方の農家で主力とはぐれたノーフォーク部隊の一部は中隊以下の規模にまで戦力減耗し、弾薬尽き果てついに降伏を決断する。
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西方電撃戦当時のクノッホライン。当時の階級はハウプトシュトゥルムフューラー(SS大尉)。襟の髑髏の徽章は髑髏部隊に独特のものである。

しかしクノッホラインはすぐさま、降伏したロイヤルノーフォークの隊員を納屋の前に並ばせ、部下に命令して機関銃でなぎ倒した。その後部下に銃剣で念入りに刺突させ、拳銃でとどめを刺した。97人が犠牲となった。しかしこの虐殺には2名の生存者がおり、戦後執念でこの虐殺を法廷で証言している。

この虐殺の理由に英軍が禁止されていたダムダム弾を使用したから、というものがあるが、これはかなり疑わしい話であり、戦闘で激情に駆られたクノッホラインの独断による処刑とみて間違いない。

この虐殺事件は捕虜を取らぬ武装親衛隊の数多の捕虜虐殺事件のはしりである。元々強制収容所監視部隊として敵に情けをかけないという信念を徹底的に教育された髑髏部隊隊員は、あらゆる武装SS師団(髑髏師団だけでなく)にもぐりこみ、その非情さを見せ付けた。この事件の直後「アドルフヒトラー連隊」も似たような捕虜虐殺事件を起こしているし、東部戦線にいたっては髑髏部隊だけでなくあらゆる武装SS師団が捕虜をパルチザンと一緒くたにして処刑している。東部戦線は独ソ両陣営お互いがほとんど捕虜を取ることなく殺しつくしあった地獄の戦場だった。捕虜に情けをかけない、後顧の憂いなく皆殺しにするというこのような狂気は東部戦線ではむしろ当たり前であった。

髑髏師団は東部戦線で伝説的ともいえる奮戦を見せるが、ボロボロに使い尽くされ、見る影もなくなっていく。

クノッホラインはその後特に虐殺の責任を問われることもなく、東部戦線などで転戦し、順調に出世しながら戦争を生き延びる。しかし戦後妻と4人の子供と共にハンブルクに住んでいたので容易に見つかり、1949年に処刑された。


武装SS全史Ⅱ
ヒトラーの親衛隊
ナチ武装親衛隊 ヒトラーの鉄血師団
http://en.wikipedia.org/wiki/Le_Paradis_massacre

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