”ニーチェの馬” 食え 食わねばならん 例え明日世界が終わろうとも

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ううううう・・・。
おおおおおおおおおおおお・・・・・・・・・。

怒怒怒怒怒怒怒怒怒・・・

おれの人生に怒りほど強い感情はないだろう。なんでこんなにイラつくのか知らないが、もう怒ってばかりいる。もう多分正常ではないのだろう。精神科的になんかの病名がつくのかもしれん。最近は忙しく仕事ばかりしている。だがやりがいのある仕事ではないため、仕事以外に何かやりがいのあるものを見つけねば、と考えているが・・そういうのがないとやっとれんよまじで。

※2013年の春ごろ書いた記事です

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そんな中、「ニーチェの馬」というとんでもない映画を観た。もう何が何だか。。おいおいこんなのありかよと。びっくり仰天した。すごい映画だった。

時は19世紀?か。なにもない農村だ。日々の糧を得るので精一杯。生きがいのない人生。労働に加えて趣味の時間を持つ。そんな贅沢は到底許されない世界。

そんな中、片手の不自由な初老の男とその娘が、淡々とただ働く。水を汲み、火を炊き、荷を運び、ボロっボロのくたびれた今にも死にそうな醜馬をひく。食事はふかしたジャガイモ一個。味付けも何もない。会話もない。ただ無言でがっつく。食事の前のお祈りすらない。食ったらすぐ寝る。次の日起きてまた働く。外は風が勢いよく恐ろしい音を立てて吹き荒れている。空は常に曇天で、陽がさすことはない。なんの希望も楽しみも救いも甘えもない世界。そこでただ働く。無言で。特に愚痴も言わずに。かといって楽しそうにするでもなく。無言で仏頂面で。

人間は弱い生き物である。救いや希望や楽しみや神さまがいなくては、生きている価値も見いだせない。だが救いや希望や楽しみや神様がいなくとも人間は働き育て強く生きることができるはずだ。この映画にはそんな主張が込められているかのようだ。例え明日世界が終わるとしても我々はその最後の瞬間まで労働し、日々の食事を作り、皿を洗い、残飯を片付け、風呂に入り、疲れたら眠るのである。

人生は労働である。労働は痛苦である。だが労働するからこそ何もかもがありがたい。当たり前にそこにあるものに感謝することができる。好む好まざるとにかかわらず。結局人間はごちゃごちゃ言わずに目の前の仕事を片付けねばならないのだ。

仕事は楽しくない。怒り妬み虚しさ悲しさ・・そういったネガティブな感情を呼び起こすものである。だがその対価として金を得る。本来生きがいも趣味の時間も神様も、我々を生かしてはくれない。厳然と我々の命をつなぐのは食糧であり、それを手にするための労働である。

陰鬱な映画である。セリフはほとんどないし荒涼とした風の音色とこれまた陰鬱な音楽・・音といえばこれしかない。楽しくもなさそうに無言で無表情で働いて、なんの味付けもないじゃがいも食ってるだけの親子。白黒。曇天。木枯らし。視覚にもなんの楽しみもない。暗鬱。ただそれだけの映画だ。だがそれでもこの映画は何の救いもない世界で、働き、食べ、生きていくしかない人間の業に満ちた生活を描いている。飾り気もなく虚しいだけ。しかしなんて美しいのだ。。

このへんちくりんなハンガリー映画。監督の名などここであげたところで、誰も知らんだろう。だから何も言わんが、神やその類似品に一切救いを求めない姿勢。これはハンガリーの数奇な歴史も無関係ではあるまい。とくにその唯物論的空気は、最近までハンガリーを支配していたコミュニズムの影響もあるのだろう。だが社会主義は神の代わりに社会主義を信仰させただけのものである。その意味でこの映画は社会主義にも神にも何ものにも救いなど求めない人間の強さをうたいあげている。こんな映画を見せられてはちょっとやそっとで辞めるわけにはいかん。おれもがんばろう。
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飯なんかじゃがいも一個で十分だ!

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