第三帝国極悪伝説05
アドルフ・オットー・ディークマン

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アドルフ・オットー・ディークマン

Adolf Otto Diekman

オラドゥール村虐殺作戦の首謀者

Diekmann

所属:SS第2装甲師団「Das Reich(帝国)」、「Der führer(総統)」連隊第1大隊
出身:ドイツ、マグデブルグ
階級:SS少佐(SS Sturmbannführer =シュトゥルムバンフューラー)
罪状:南仏オラドゥール=シュル=グラヌ(オラドゥール村)の襲撃、村民ほぼ全員の虐殺を指揮

ドイツ軍によるオラドゥール村虐殺作戦をご存知の諸氏も多いだろう。なんせドキュメンタリー番組の傑作「映像の世紀」の第5集’世界は地獄を見た’の冒頭でこの事件について言及しているからね。これがまた下手に完成度が高いもんで、見せ方がやけに上手く、妙に印象に残ったものである。1944年6月10日、平和な平和な、最も戦争から遠いと思われた緑豊かな田舎の村を ドイツ軍が急襲、村民のほぼ全てが虐殺された。これは荒くれ揃い、戦争犯罪がつきものの武装親衛隊の中でも異例とも言われるほど大規模で残虐な虐殺事件である。犯人は武装親衛隊の中でも最も強力な部隊で、精鋭揃いのエリートと言われたSS第2装甲師団「ダス・ライヒ」。その「デア・フューラー」連隊第1大隊第3中隊である。師団長ラマーディングにも責任があるが、直接指揮・指示した犯人はアドルフ・オットー・ディークマンSS少佐である。

ディークマンは1914年8月12日にドイツ、マグデブルグで出生。連合軍のノルマンディー上陸作戦が始まった1944年6月には弱冠29歳にしてダス・ライヒ師団の大隊長であった。ディークマンはよく笑いよく怒る気分屋で、部下はディークマンがどれほど機嫌が良さそうに見えても油断しなかった。あまり部下から慕われるタイプの指揮官ではなかったようである。

ダス・ライヒ師団は1944年初頭まで東部戦線で激戦を繰り広げていた。2月には師団は一部を残しフランスへ撤退、戦力の補充・再編成が行われていた。東部戦線でかなりの痛手を受けた師団だったが、補充兵のほとんどはアルザス人新兵だった。アルザスは歴史上、ドイツの領土だったりフランスの領土だったりしたため、アルザス人も自分たちがドイツ人なのかフランス人なのか、アイデンティティーが混乱していたと言われる。いずれにしても武装親衛隊はこの当時事実上の外人部隊に近い存在であったため、アルザス人志願兵も数多く、彼らはいきなりエリート部隊へと投げ込まれたのである。

東部戦線帰りの百戦錬磨のSS将兵たちはこれら新兵たちが一刻も早く古参兵並みの働きが出来るように、かなり過激な教育を施した。

1944年の5月ごろ、フランスで大規模なラティサージュ(パルチザン掃討作戦)が開始される。ここで最も戦慄すべき残虐行為が新兵教育のための手段とされた。彼らに戦闘の味を覚えさせ、殺しの度胸をつけさせるためである。ある村では祖父と2歳の孫が生きたまま炎上する彼らの家の中に投げ込まれた。ある親子が射殺される時、父親は15歳の息子を抱擁させて欲しいと頼んだ。願いは聞き届けられSS隊員はげらげら笑いながら二人を一発の銃弾で殺した。80歳の女性が兵士たちをみてショットガンをぶっ放すと、彼女と姪は公開処刑に処された。これらの虐殺はディークマンが指揮したと言われている。ドイツ軍はこの虐殺を大宣伝し、レジスタンスに加担することのコストがいかに大きいか民衆に知らしめたのである。虐殺や公開処刑の目的のほとんど全てはそれだった。ドイツ軍は当時かなりフランスのレジスタンスに苦しめられていたのである。
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師団がノルマンディーに移動する途中、ディークマンの戦友、ケンプフェSS少佐とゲルラッハSS大尉がフランスレジスタンスに襲撃を受け誘拐される。ゲルラッハ大尉はその後脱出して、レジスタンス「マキ」の本拠地がオラドゥール・シュル・グラヌにあると報告した。そこにケンプフェ少佐が囚われているとも。怒り狂ったディークマンは自ら第1大隊第3中隊を率い、オラドゥール村を襲撃する。村民642名(うち子供207名)のほぼ全員を射殺、もしくは教会や納屋に閉じ込めて手榴弾などで焼き殺した。

SSが襲った当時、村人の多くは昼食をとっているところだった。村人は村の広場に集められた。表向きの口実は身分証の確認と武器が隠されていないかの調査である。男たちは6つのグループにわかれ納屋に押し込まれた。女・子供は教会へと連れて行かれた。

納屋には機関銃が用意されており、ディークマンの合図と共に処刑が開始された。まず足を狙って動けないようにしてから、ディークマンが一人一人に何事かを尋問しては村人を拳銃で射殺していたという。それはケンプフェのことだったかもしれないし、一説によればレジスタンスがドイツ軍から奪った金塊のありかを探っていたのだという説もある。その後納屋には火が放たれ、脚を撃たれた男たちは逃げられず生きたまま焼き殺された。
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教会では窓やドアが閉切られ、巨大な発炎筒を中で炊いて窒息死させる計画だったがうまく行かなかった。そこで手榴弾と機関銃が使われた。教会も最後には火を放たれた。女も子供もわずか独りの生存者を除き全滅した。
ドイツ軍は村人を絶滅させると建物全てを徹底的に破壊しつくし、村は完全な廃墟となった。虐殺は宣伝されるのが通例だったが、このオラドゥールに限っては秘匿され埋葬も数日たってからようやく許された。

この虐殺には、ドイツ軍が来た時点で逃亡を図ったユダヤ人数名をはじめとした20名が生き残り今日まで虐殺の様子を伝承した。しかしなぜこの村が襲われたのか、ディークマンが何を探っていたのか、なぜこの虐殺は宣伝されなかったのか、謎は多く、現代でも論争の的となっている。

ディークマンはこの事件の直後、軍法会議にかけられたがラマーディング司令官はディークマンを大隊長から罷免しなかった(普通軍法会議にかけられると罷免されるものらしい)。その後6月29日、ノルマンディー戦で砲弾の破片を頭部に受けディークマンは戦死した。一説では自殺とも言われる。

戦後この虐殺事件に関与した兵士たちの裁判が開かれた。ドイツ人7人とアルザス人14名である。アルザス人志願兵とドイツ人1人が死刑、他は5~12年の懲役だった。だがアルザス人は武装SSに強制徴用された被害者であるとする論説が支配的となり、全員恩赦となった。死刑判決を受けたアルザス人も後に終身刑に減刑された。

村は今をもってなお、廃墟のまま残され、無残な姿のまま南仏に横たわっている。
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オラドゥール 大虐殺の謎
武装SS全史Ⅱ
http://ww2gravestone.com/general/diekmann-adolf-rudolf-reinhold
http://www.scrapbookpages.com/oradour-sur-glane/OldPhotos/SSofficers.html

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