第三帝国極悪伝説03 ヴラニスラフ・カミンスキー

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ヴラニスラフ・カミンスキー

Bronislav Kaminski

血も涙もないロシア人の武装SS司令官

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所属:武装親衛隊第29装甲擲弾兵師団「RONA」
出身:ロシア帝国、ヴィチェプクス
階級:SS少将(SS Brigadeführer=ブリガーデフューラー)
罪状:ブリャンスク近郊におけるパルチザンの虐殺、ワルシャワ蜂起におけるボラ地区での虐殺・略奪・レ×プおよび私財の不正貯蓄など

※武装親衛隊について
第三帝国の犯罪に加担したのはドイツ人だけではない。そこは雑多な統一感のない人種の坩堝であった。
親衛隊の武装部門、武装親衛隊(WAFFEN-SS)は当初ヒムラーの変質的こだわりで純潔ドイツ人のみの異様極まるエリート部隊であった。
しかし戦争によってそのエリートもたくさん死んじゃったので、補充兵はどうすんの?という問題が早速浮上する(そりゃそうだ)。そこで、ヒムラーは武装親衛隊補充兵の採用部長ともいう地位にゴットロープ・ベルガーSS中将を任命。ベルガーはナチスの偏屈な人種的こだわりを排除して占領各地の現地民から兵をかき集めた。 その方法は荒っぽく、志願がダメなら強制徴集も辞さない強権的なものであった。
だが武装SSはその甲斐あってか雪だるま式に隊員数が増加してゆき、終戦までに90万人を超え、ちょび髭は命令違反や暗殺未遂ばかり起こす国防軍は信用せず親衛隊に頼るようになる。もはや武装親衛隊の性質は外国人義勇兵団そのものであり、フランス外人部隊のそれに似ていた。
当然彼らは第三帝国の理念など理解しなかった。ただ共通していたのは、彼らがアカ野郎とユダ公が大嫌いだったことである。
戦時においては敵に対する憎しみさえあれば、それで十分であった。ブラニスラフ・カミンスキーは、そんな武装親衛隊の外人部隊に所属していた師団の司令官である。かの部隊は「SS武装突撃旅団 RONA」、「カミンスキー特務旅団」、「武装親衛隊第29装甲擲弾兵師団」など、様々な名で呼ばれた。カミンスキーはロシア帝国で生まれた大学出のインテリである。ポーランド人の父親とドイツ人の母親の間で生まれた。外国人インテリゲンツィアのカミンスキーはボリシェヴィキによって粛清され、ブリャンスクの強制収容所に叩き込まれる。カミンスキーはアカが大嫌いになった。 バルバロッサ作戦後、ドイツ軍がブリャンスクを占領すると現地民はドイツ軍を解放者として迎えた。カミンスキーは現地の自警団組織「ロシア国民解放軍(=RONA)」の隊長補佐的立ち位置で参加し(後に隊長になる)、以後この組織がカミンスキー旅団の基礎となっていく。

RONAはドイツ軍に協力を申し出、当初は拒否されるが兵員不足からブリャンスク近郊の自治をドイツ軍に認められ、彼の支配する領域には170万人の市民がいた。 治安は安定し平和と繁栄の天国になったと言われるほどだ。反共のロシア人がこの自治区に続々集まってきた。

だがドイツ軍は劣等民族スラブ人という偏ったイデオロギーを徹底的に教え込まれていたため、カミンスキーの自治領域以外では住民に対する虐待行為やアインザッツグルッペンによる組織的虐殺が横行していた。これに対しカミンスキーはドイツ軍に対して抗議したといわれている。
独第2装甲軍は、ソ連に勝利した暁にはカミンスキーに一定の領土を与えることを約束し、奴隷としてではなく高い士気を持って戦わせることにした。

旅団の規模は拡大し1942年には20000名に達した。加えてドイツ軍より、鹵獲したT-34戦車や機関銃、野砲などを受領し、戦力が大幅に増強された。 歩兵5個連隊、T-34戦車24両を持つ戦車1個旅団、工兵1個大隊、警備1個大隊、機関銃部隊で構成されていた。
カミンスキー旅団は主にパルチザンを相手に戦っていた。ドイツ軍が大作戦をやっている最中もパルチザンから補給ラインを守る後方での戦いに従事していた。

1942年6月、カミンスキー旅団はパルチザン狩りの大規模な作戦(フォーゲルザンク作戦)に参加した。作戦地帯はブリャンスク北の森林地帯である。この作戦にはRONAの他に、ドイツ軍第5装甲師団や第216歩兵師団、ハンガリーの軽師団数個が参加していた。
10月までに1193名のパルチザンが殺され、1400名が負傷し、498名が捕縛された。12000人の民間人が難民となった。
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カミンスキーの肩に「POHA」との徽章があることに注目。RONAはキリル文字で表記するとPOHAになるそうだ

カミンスキー旅団はいまや、元パルチザン、元赤軍、反共ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の集合体でさらに勢力を拡大していく。
たが度重なるパルチザンとの死闘や赤軍による離反工作により落伍者が続出。反乱や脱走が相次いだ。自身も何度も暗殺されそうになるが、カミンスキーは裏切り者には徹底した制裁で応じ、部隊の崩壊を防いでいる。

戦力減耗により後方に退いたカミンスキー旅団は正式に武装SSに加えられ、司令官のカミンスキーはSS少将の階級を得ていた。
しかしドイツ軍がロシア領から追い出されると、故郷へ帰れる見込みがまずなくなった。RONA隊員15000名に加え、その家族20000名がいた。さぞヤケクソだったことであろう。そんな時、ワルシャワでポーランドレジスタンスの蜂起が起こり、この鎮圧にたまたま近くにいたRONAにお呼びがかかる。 この最悪の市街戦でRONAのヤケクソっぷりが発揮されるのだ。

ヒトラーは「ワルシャワを焦土とせよ」との命令を下し、鎮圧軍司令官にバッハ・ツェレウスキーSS大将が任命された。彼は麾下の部隊に総統命令を伝えRONAはこれを略奪許可命令と誤認し、ワルシャワ、ボラ地区を血の海にした。

キュリー・スキオドフスカ・ラジウム研究所はカミンスキー旅団に襲われ、ガン患者や看護婦全員がレ×プされて虐殺された。このドイツ軍の軍服を着たロシア人たちは狂気のように暴れまわり、殺人、略奪を行い、指輪、宝石、時計、金製品をかき集め、婦人を追いかけまわした。

これらの虐殺は軍事的に全く無意味なものであった。しかしヒムラーはこれらの報告を聞いても「ワルシャワの住民は皆殺しにするべきである。生かしておく必要はない」と言い切り最初はカミンスキーをかばっていた。

鎮圧には他にライネファルトSS中将の武装警察部隊や悪名高いオスカル・ディルレバンガー上級大佐の突撃旅団も参加しており、無抵抗の市民に機銃掃射を加えて一人残らず皆殺しにしてまわったという。
また、無人遠隔戦車「ゴリアート」や600ミリ自走臼砲「カール」など新兵器が市街の破壊に投入され、文字通りワルシャワは焦土とされた。
第三帝国の常軌を逸したSFっぷりが遺憾なく発揮された戦場であった。
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ライネファルトSS中将(中)とカミンスキーSS少将(右)

カミンスキー旅団は略奪に明け暮れ、肝心の戦闘行為にはほとんど参加しなかった。ドイツ第9軍はカミンスキー旅団の無線を傍受しており、彼らの行動を正確に把握していた。彼らは戦闘では全く役に立たず、ボーランド兵士の強烈な怒りの報復と激烈な抵抗を招いただけだった。

グデーリアン陸軍上級大将はRONAと犯罪者旅団の撤収を進言し、これにはヒムラーの連絡将校ヘルマン・フェーゲラインSS中将も同意した。「総統閣下、奴らは真のヨタ者です」と有名なセリフがある。

鎮圧軍司令官、ツェレウスキーは略奪をやめるよう命令。だが命令は無視され、ほとほと呆れ果てた首脳部は(ヒムラーもいつしかかばうのをやめたようだ)カミンスキーの処刑を決定。ゲシュタポがあっさり即決裁判で処刑してしまった。

処刑は偽装され、パルチザンに襲撃されたということになった。旅団も後方に移動させられ、あっさり解体された。 残党はアンドレイ・ウラソフロシア解放軍(ROA)に編入された。犯罪者を押し付けんな!って怒られたとか。ごもっともな言い分である。


武装SS全史Ⅱ
武装親衛隊外国人義勇兵師団1940-1945
ワルシャワ反乱 見殺しのレジスタンス
http://www.axishistory.com/index.php?id=308

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