第三帝国極悪伝説02 ラインハルト・ハイドリヒ

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ラインハルト・ハイドリヒ

Reinhard Heydrich

ヒムラースヒルンハイストハイドリヒ

ヒムラーの頭脳、その名はハイドリヒ

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所属:SD(親衛隊保安諜報部)長官、後にRSHA(帝国保安本部)長官、ボヘミア・モラヴィア保護総督

出身:ドイツ、ハレ

階級:SS大将(SS Obergruppenführer=オーバーグルッペンフューラー)

罪状:ユダヤ人・少数民族の絶滅を指揮、プラハの虐殺、ポーランドに対する陰謀、ソ連に対する謀略、他多数

最も悪名高いSS隊員である。金髪の野獣悪魔プラハの虐殺者などあだ名も多数。大した組織でもなかったSSを異常に巨大化させ、ドイツ警察と統合し、ドイツの国家情報機関に成長させた、典型的冷酷なやり手である。

1904年ドイツ、ハレにて出生。両親は音楽家。厳格なカトリック教育を受けるがそのおかげか生まれついての反骨か、カトリック大嫌いな少年に成長する。第1次大戦時まだ少年だったハイドリヒは従軍しなかったが、15の頃に既に反ユダヤ的国粋主義団体に加盟していた。音楽家の両親の影響でヴァイオリンの名手になる。

ハイドリヒは18でアビトゥーア(高校みたいなもの)を終えると海軍に入隊する。彼は「ブロンドのジークフリート」というあだ名がついた一方、ユダヤ人という噂も付きまとい「ブロンドのモーセ」と呼ばれることもあった。彼の祖先にユダヤの血が流れているという噂は終生彼に付きまとう。が、実際は単なるデマだったそうである。海軍で順調に出世し中尉に任官したが、病的に女好きのハイドリヒは色んな女と肉体関係を結んでいた。その中に手を出したらやばい令嬢もいたようで「品位なき態度」を問題視されて海軍をクビになる。完全に将来への道を絶たれた彼は26歳のその頃、ただただ途方にくれていた。

ハイドリヒは妻リナのコネで情報将校を探していたヒムラーと面接し、うまいこと採用される(通信将校だった彼が情報部員と間違われるという偶然はその後の悲惨な歴史を考えれば悪い冗談というか悪夢のようでさえある)。

ヒムラーは若干27歳のその若者に親衛隊IC部(SDの前身です)を委ねた。 仕事を得たハイドリヒは月給180ライヒスマルクだったが真面目に働いた。SSの各部門から防諜関係の要員を引き抜いて自らの部下とし、特務部隊を編成した。彼はナチ党に敵対するあらゆる勢力や危険と目された人物をデータベース化し、人名索引カードの制作に没頭した。また謀略・工作活動にも多数手を染め、特にヒトラーのドイツ国籍取得の際の工作で功績を認められSS少佐へ昇進する。

Reinhard Heydrich

議事堂炎上事件、トーマス・マン事件、レームの粛清、水晶の夜など数々の陰謀に加担し、しばしば主催者となった。 その他、ハイドリヒが加担した陰謀には他に以下のものがある。

・ソ連のトハチェフスキー元帥が反乱を画策しているという偽造文書を作成してソ連指導部に流し粛清を促した。この工作の直後ソ連では将校・将軍の大粛清が巻き起こり大佐以上の高級将校の65パーセントが粛清された。

・第2次大戦前夜、ポーランド国境に近い放送局をポーランド軍服を着た兵士が占拠、反独演説をぶつが、この兵士はSSの工作員で開戦の口実に使われた。

また、1933年、ヒトラーが首相に任命されナチ党が政権を握ると、ドイツ警察とSSを統合させようという試みが始まり、最初の標的はバイエルン警察だった。ヒムラーはバイエルン警察の総監に就任し、ハイドリヒはその政治部門であるⅥ課の責任者となった。バイエルンの政治警察部門をバイエルン内務省から独立させ、それを強化していずれは全ドイツの政治警察として君臨するという構想である。当時反国家的政治犯は問答無用に逮捕してよいという権限を警察をもっていたし、ヒムラーは既に強制収容所関連のポストも掌握していた。バイエルン政治警察の権力は異常に肥大化した。

ミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所にはヒムラーとハイドリヒの猛威が荒れ狂い、ドイツの他の地域の囚人数の数百倍とも言われる拘禁者がいた。 ヒムラーとハイドリヒはバイエンルンだけでは飽き足らなくなり、ドイツの他の地方にも目を向け始める。プロイセンではデブで有名なゲーリングが「ゲシュタポ」という名の政治警察を作り上げていた。それはバイエルン政治警察によく似た組織で、党や国家から独立した個人に支配された警察だった。ゲーリングはナチ党内での勢力争いの末、ヒムラーとハイドリヒの助力が必要となり、ゲシュタポを引き渡す形で同盟に参加した。

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ヒムラーの後ろにいるのがハイドリヒ

ヒムラーはゲシュタポの責任者となり、バイエルン政治警察の場合と同じにハイドリヒを彼の代理人として重要ポストにつけた。 その後、元々ドイツ警察に警察官として働いていた腕利きの捜査官をSDや親衛隊に勧誘するなどし、1933年の時点でわずか100人足らずのSDを巨大化させ、ゲシュタポを再編成することに成功する。そうやって親衛隊に移ってきた刑事の中には後のゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラーなどもいた。

1936年、ゲシュタポと刑事警察を統合して保安警察(Sipo)が、1939年、保安警察とSDが統合されてRSHA(帝国保安本部)が設立される。このRSHAが終戦までの各所の弾圧や恐怖政治、ユダヤ人の大虐殺を主催した最悪の警察組織である。長官には言うまでもなくハイドリヒが就任した。 更にRSHAは強制収容所も支配し、戦時下における礼状なしの逮捕と強制収容所への拘禁を行うことが出来た。

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左)カール・ヴォルフ 中央)ヒムラー 右)ハイドリヒ

RSHAはハイドリヒの命令により特別出動集団(Einsatzgruppen=アインザッツグルッペン)を編成、占領各地での反独活動の取り締まり、パルチザンの壊滅、ユダヤ人の絶滅、共産党員の撲滅の実行部隊となった。A~Dの1000名前後の特別出動集団は更に数百名程度の特別出動部隊(アインザッツコマンド)、特務部隊(ゾンダーコマンド)に別れ、各軍管区で虐殺作戦を実行した機械化処刑部隊である。その司令官にはナチ党の大学出の知的エリート博士の学位を持つインテリが多数任命され、やったこともない野蛮な虐殺作戦を指揮させられることとなった。事実上の懲罰部隊であり、ハイドリヒは気に食わない貧弱なインテリSS隊員を多数東部の情け容赦ない地獄の戦場へ非道な任務と共に送り込んだ。

ハイドリヒはポーランドに特別行動隊を送り込む際に、同じく国防軍の防諜部門アプヴェーアの司令官ヴィルヘルム・カナリスにこう漏らしたという。 「我々は細民は赦してやるが、貴族と坊主とユダヤ人は殺さねばならない。ワルシャワ入城後、どのようにこの連中をすっかり摘みだすか、私は軍と取り決めるつもりだ」

ヴァンゼー会議として悪名高い、ユダヤ人政策の行き着く先が彼らの絶滅であるという取り決めが為された会議は1942年1月20日に開催された。各省庁の実力者がベルリン、ヴァンゼー湖畔に集結した。その中にはアドルフ・アイヒマンSS中佐などもいた。ハイドリヒはここでユダヤ絶滅の全権委員に帝国元帥(=ゲーリング)より任命されたと参加者に伝えた上でこう言った。既に53万7千人がドイツの生活圏から国外へ移住された、と。この「移住」には虐殺も含まれていることを留意するべきである。

ハイドリヒは帝国圏内に1100万人のユダヤ人がいることを挙げており、これらが処理されるべきだと述べた。処理は虐殺・不妊処理・強制労働による過労死が意味される。ハイドリヒにとってはこれらが淘汰という名の自然な人口減少であった。こうして絶滅されるべきだと。 この会議で細かくユダヤ人の定義から虐殺するべきもの、断種するべきもの、強制労働に投入すべきものなどが話し合われ、各部門で統一的な見解が持たれる事となった。

1941年9月27日、ハイドリヒはチェコの保護領ベーメン・メーレンの総督として着任する。ベーメン・メーレンは重工業地帯であり多くの戦車や機関銃が生産される重要な場所である。ここで市民によるサボタージュ・ストライキ・抵抗運動が行われ生産能力が落ち込んでいたことに対しヒトラーは激怒し、ハイドリヒを送り込んだ。 ハイドリヒがプラハに着任したその日から全土に戒厳令がしかれ、即決裁判所が設置された。チェコの首相が逮捕→死刑判決を受け見せしめとされた。またゲシュタポに反体制派やヤミイチの摘発を徹底させ数週間で抵抗勢力を消滅させてしまう。しばしば即決裁判で銃殺や公開処刑が行われハイドリヒは「プラハの虐殺者」と呼ばれた。

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またハイドリヒは中産階級・インテリ層を冷遇し労働者階級を給料を増やすなど厚遇し生産力を回復させてしまう。 しかしハイドリヒは護衛をほとんどつけずに堂々としていたため、しばしばヒトラーやヒムラーにそのことで注意を受けていた。しかし生来鈍感なのか策略なのか自信家なのか、護衛を増やそうとしなかった。そのことが命とりとなり、チェコのレジスタンスに移動中に襲われてしまう。1942年6月4日死去。享年38歳。

ヒムラーは呆然とし、ヒトラーは激怒した。上級SS兼警察指導者カール・ヘルマン・フランクSS大将は徹底的な報復を指揮、リディツェ村がその対象に選ばれ、成年男子全員射殺、全女性を強制収容所へ連行、子供はドイツ化などを目的に拉致、集落は焼き払われ、土地は均された。 ハイドリヒ暗殺の実行犯はチェコの聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂に追い詰められ、教会ごと焼き払われた。 リディツェ村の後に小集落ラザッキィーも絶滅された。どちらも犯行者を支援していたという憶測による報復であった。その後も保護領で3188人のチェコ人が拘束され、1357人が死刑判決を受けた。

帝国ではハイドリヒの国葬が行われ、ヒトラーは鉄の心臓を持つ男としてハイドリヒを褒め称えた。

ハイドリヒの葬儀には≪フューラー≫を始め重鎮が一同に会して出席した

権力のみを神とした冷酷なSS隊員はヒムラーの腹心として二人三脚でナチス親衛隊に君臨した。ハイドリヒが猛威をふるった11年間でSSとその傘下の組織は絶大な権力を持つにいたり、彼の死後も、ナチス崩壊のその日までその地位は微塵も揺るがなかった。


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