ハインリヒ・ヒムラー
Heinrich Himmler
≪意志≫の代行者
所属:SS、内務省
出身:ドイツ、ミュンヘン
階級:SS全国指導者(Reichsführer-SS)、全ドイツ警察長官
罪状:ユダヤ人の絶滅を指揮・実行。600万人のユダヤ人と数え切れないほどの少数民族、反体制派、精神・身体障害者の命を奪った。
ナチスドイツ最悪の暴力機関「親衛隊」の最高指導者である。田舎の校長先生のような風貌の通り、性格も真面目な公務員タイプだったそうで、彼の人柄からそのとてつもない犯罪を想像することは難しい。だがSSの歴史は彼の人生であり、SSの犯罪は彼の犯罪である。
1900年10月7日、ミュンヘンにて出生。ハインリヒの名の由来はバイエルン王家のハインリヒ王子が名付け親となり、その名をもらったからである。 第1次大戦が勃発した時、彼はまだ14歳で前線に出ることはできなかったが、軍を率いてみたいという彼のロマンチックな夢は膨らむ一方。1917年になって父親に無理を言ってバイエルン歩兵第11連隊に入隊。しかし実戦の名誉は与えられず、訓練中に終戦を迎える。
終戦を迎えてからはミュンヘン工科大学で農業(農業にはめちゃくちゃうるさかったらしい)を学んだり恋をしたり食道楽にふけったりもした。しかし軍人になって実戦で部下を率いてみたいという彼の欲求は死んではおらず、二十歳の頃ミュンヘン市民防衛軍に入隊。1922年ごろ後の突撃隊(SA)指導者エルンスト・レーム※に出会う。レームは同性愛者だが、若者をひきつけるカリスマ性があったという。ヒムラーはレームに夢中になり、レームに自らの全てを捧げようと決心する。レームの勧めで「帝国国旗」という国粋主義団体に入り活躍する。しかしミュンヘン一揆が失敗に終わりヒトラーやレームが警察に逮捕されると彼は主人を失った犬のように迷走する。 ※レームは後に「長いナイフの夜」でヒムラーの命令によって銃殺される ヒトラーが1924年に出獄してあっという間に新生NSDAP(ナチ党)を結成すると、ヒムラーは新しいアイドルを見つけたと感じた。 ナチ党に入党したヒムラーは下バイエルンの宣伝担当※秘書の仕事に月給120マルクで就き、真面目に働いた。ヒトラーは彼の仕事ぶりを評価し、ナチ党でのヒムラーの地位は向上した。 ※グレゴール・シュトラッサー
1931年6月14日、運命が2人の男を引き合わせる。海軍をクビになったラインハルト・ハイドリヒが丁度防諜活動に優れた人材を探していたヒムラーの目に留まり、SS中尉として任官するのである。ハイドリヒはめきめき頭角を現し、SS組織を巨大化させていった。ハイドリヒは親衛隊保安諜報部門SDの創設、一介の地方警察だったゲシュタポの巨大化、全ドイツ警察とSSの統合・・などをわずか数年でやってのけた。ハイドリヒによってヒムラーははじめてSS全国指導者の地位の威力を知ったのである。 しかしヒムラーは自らの腹心ハイドリヒの権力の急速な増大を鑑み、上級SS兼警察指導者(HSSPF)を帝国領内の各軍管区に設置した。HSSPFはヒムラーの直属の高級将校として各軍管区における警察とSS(武装SSも含む)の統括を行った。あたかもヒムラーの体がいくつもあるかのような、自分の分身、代理人としての権力執行機関を使ったのである。これはハイドリヒには確かに邪魔な存在だった。 またヒトラーの護衛部隊として創設されたSSは、1933年にヒトラーが政権を得て組閣した際に、「SS司令部衛兵班ベルリン」としてゼップ・ディートリヒSS中将の指揮の下編成され、これが後に「アドルフ・ヒトラー連隊(LAH)」となる。その後「アドルフ・ヒトラー親衛旗連隊(LSSAH)」と改名され組織力を強めていく。隊員の選抜基準は身長180センチ以上、25歳以下、健康優良・・・など厳しく名実共にエリート部隊としての性質を強めていく。後の「長いナイフの夜」として知られるSA司令官レームの粛清の際にはSS戦闘部隊が大きな功績を残し、以後準軍事組織として巨大化していく。この数百人足らずのSSの武装部門がSS-VT(親衛隊執行部隊)→WAFFEN-SS(武装親衛隊)と進化してゆくのである。武装SSは戦争が始まると占領各地の外国人義勇兵や民族ドイツ人を吸収して終戦までに90万人を超えるドイツ第4の軍隊として成長し、戦場を暴れまわった。
こうしてヒムラーは国内警察、対外諜報部、準陸軍兵力の全てを手中に握る圧倒的な権力を持つにいたる。 1944年のヒトラー暗殺未遂事件は首謀者の一人に独軍情報部アプヴェールの司令官、ヴィルヘルム・カナリスもいた。その他多くの国防軍軍人が暗殺計画に関与していた。総統は国防軍に対する信頼を完全に捨て去り、ヒムラーの親衛隊が代わりに大きく存在感を増していくことになった。ヒムラーはこの暗殺計画に参加した裏切り者の捜索と粛清の執行者となり、ヒトラーの信頼を高めたヒムラーはついにドイツ国内予備軍総司令官の地位を得る。予備とは言えヒムラーが軍隊の指揮者となるのはこれが初めての事であった。幼い頃からの夢であった将軍になれた瞬間であった。 ヒムラーは国内治安維持用に6個大隊を残し、ヒトラーの命令どおり動ける若者を駆り集め、ほとんど教練も施さぬまま前線に送り出した。その数50万!ソ連に押しまくられていたドイツにとって驚異的な数値の新部隊である。またヒムラーは最後の時を考えて敗戦後のゲリラ攻撃を主任務として想定した人狼部隊(werewolf)の組織を実現する。 敗戦間近のドイツ国内でもゲシュタポや治安警察は全く問題なく全力で仕事をし、「私は逃亡者」「許可なく逃げた私はここに吊るされる」などのプラカードを首から下げた処刑された死体がそこかしこに見られるようになった。 ヒムラーの権力は絶頂にあった。しかし党内の勢力争いによる陰謀により西部戦線、東部戦線において重要な作戦をいきなり任されることになる。軍事的センスに欠けるヒムラーは全ての戦線で目的を達成することが出来ず、グデーリアン上級大将の申告によりあっさり防衛軍司令官の地位を罷免される。軍を率いてみたいというヒムラーの夢は苦い思い出と化し、全国指導者の権威の急速な失墜を招いた。 落ち目のヒムラーは一転敗北を認め、西部戦線での連合軍との単独講和を目指して画策するが失敗。ヒトラーはこれに激怒し、ヒムラーを解任した(だが依然圧倒的な権力を握っていたヒムラーを解任させられる実力者は帝国にはいなかったので命令は無視された)。その後連合軍の捕虜となったヒムラーは服毒自殺を遂げる。死体はリューネベルクの森に埋められた。墓標もなく葬られたため、森のどこに埋まっているかはわかっていない。
ヒムラーはユダヤ人の虐殺に当初は反対で、農作物のように人種を品種改良してゆくという考えの方がお気に入りだった。しかしヒトラーやゲッベルスといったナチ指導部の決定によってその実行はヒムラーとSSに委ねられた。ソ連侵攻の際には移動殺戮部隊アインザッツグルッペンが占領各地で共産党員やユダヤ人を手当たり次第に射殺していたが、そのうち男性だけでなく女や子供にまで虐殺の魔の手が及び始めた。するとSS隊員の士気はがくんと落ち、銃殺に代わる方法が必要とされた。そこでヒムラーはガス室の設置を各収容所に急がせ、もっと効率よく死体を見ずに精神的打撃を受けずに済む「うまい方法」でユダヤ人たちを絶滅させていった、と言われる。 また彼はオカルト好きで霊媒師を周囲に囲ったりしていた。この点からも夢想家で現実逃避的な彼の性格をうかがい知ることができる。 ある面ではクソ真面目の公務員。 陸軍上級大将ハインツ・グデーリアンはヒムラーについてこう語ったという。
武装SS全史Ⅰ及びⅡ
|